たしなみについて 白洲正子

白洲正子さん、気になってはいたのですが、本は初めて読みました。

たしなみについて

たしなみについて

下に書いた「ちよう、はたり」の中に、白洲さんのことが書かれているんですね。
その文章も瑞々しく、印象深くて、これは、この機会に白洲さんの本も読んでみたいな、と思い、図書館で目に留まった本を借りました。

内容的には、共感出来る部分、ピンと来ない部分、どちらもあったのですが、何よりも文章の美しさが素晴らしくて、惹きこまれました。志村さんの文章とはまた違う美しさなんですよね。しなやかでありながら断定的な美しさ、というか。

たしなみについて、芸術について、智慧について、進歩について、祈りについて。ありふれた題材、とも言えるこれらのことを、こんな風に表現できる、こういう文章に出来るんだな、ということにも驚きました。

「人は、忙しい時の方がどんなに気楽に暮らせるか解りません。
ひまをつくる事よりも、ひまをつぶす事の方がはるかにむずかしい仕事であるからです。」
という箇所は、しみじみと共感しました。私は本当に、きちんとひまをつぶす、ということが不得意なので。

それから、印象深かった箇所が、「進歩ということ」の中の、原子爆弾等、科学についての言及からの、

「そしてついに、自らつくった物に滅ぼされる、そういう日が来ないことを私は心から祈ります。
あなたも、わたしも、進歩しようとしたって、進歩なんかしやしないのです。それはきっぱりあきらめるべきです、男らしく、いや女らしく。
そんな物には見向きもせず、只一心不乱に自己の人間を育てようではありませんか。文化とか進歩とかいうものは、悪い悪いやつです。悪魔です。そんなものの誘惑にはのらず、ひたすら自らを信じましょう。

自信とうぬぼれとは違います。自信は生産的ですが、うぬぼれはありとあらゆる物を破壊しつくします。科学の進歩即人間の進歩と考えることも一種のうぬぼれに違いありません。そのうぬぼれは、ついに人間自らつくった物のあるじとなる事も出来ずに、この二つの手を、この頭脳を過信するあまりに、反ってその物にくわれてしまう結果におちいるのです。科学の人類に対する復讐の形を持つ、これは神の天罰です。これは真に不幸な出来事です。」という部分でした。

ここだけ抜き出してしまうと、白洲さんのお考えが伝わらないようにも思い、少し迷ったのですが、印象深くもあり、そして、「剛さん・・・!」とも思ったので(笑)、ここを。

剛さんは、文化や進歩を否定されてはいないと思いますが(他の箇所もふまえた上で読むと、白洲さんも変に拒否してらっしゃるわけではないように思うのですが)、自分を信じよう、というこの流れは、根っこのところが似てらっしゃるように思います。
剛さんの場合は、ここに更に色々あってまさかのshamanippon、という流石の面白さですが(笑)、やはり感覚的な面が優れている方は、肌で、この文章にあるようなことを感じられるのかな、と思います。社会の空気、流れ、リスク、そういったものに敏感であるというか。人を愛おしみたい、というお気持ちからでもあるんですかね。

私自身は、科学、医学、工学、そういったものの恩恵は大きくて、それらによって(様々な意味で)助かる人、助かってきた人が沢山いらっしゃる、というのは、否定しようも無い事実だし、否定する必要もないと思うんですよね。現在の文明や進歩を否定できるのは、その文明の中で必死に働く人達や、弱者とされる人達ではなく、ある程度の生活が自力で出来る人や、身体的、金銭的、環境的に、どちらかと言えば恵まれた環境に居る人達であるように見えるし。

ただ、やはり恩恵の大きさに相当する程の大きな危険、制御しきれない恐ろしさがある、というのも間違いなくて、それは本当に注視して、警戒していかなければいけないし、何より、己の力の限界を弁える、見誤らない、ということが必要であるように思います。大震災の後である今、しみじみと。

○○していれば制御出来たはずだった、等のことをどうこう言ったところで、制御しきれなかった、という現実だけは変わらないし、結局防ぐことが出来なかった。それが明らかになった以上、今後も、制御しきれない、あるいはその可能性のある分野に手を出してはいけない、ということは変わらないはずだと思うのですが、より便利になることで助かる人も多い、より便利にならなければどうしようもない、というところにいる人も多いのが難しいところですよね。

どこまでが、人が手を出して良い領域なのか。それを己に、あるいは神のようなものに問い続けながら、迷い迷いやっていくしかないんだろうな、と感じます。

だいぶ話が大きくなってしまいましたが(笑)、なんとなくそんなこともつらつらと考えたくなるような文章の連続なんですよね。自分と違うな、と感じるような考えが書かれていても、変に反発する気持ちは起こらずに読めるというか。白洲さんの文章の力なんだろうな、と思います。

他にも、仏像についての記述とか、戦争について少し触れてあるところだとか、印象的な箇所が多かったです。
戦争については、志村さんも書かれていましたが、やはり、経験された方の文章を読むと、改めて、何故、と感じます。

それと、ここ最近、「自分が弱いものである事を痛感しないかぎり、芸術家でも美術家でもありません。人間の感情、気まぐれな好みとか、たよりない言葉は十人十色であり、その時々変わるものであるにかかわらず、又美しいものは世の中に多いにもかかわらず、美はたった一つしかない、ーそういうことを美術は教えます。」という白洲さんの文章と同じような考えを何度か読んでいて、これも、面白いな、と感じています。美はたった一つしかない。感覚的には、なんとなく分かるような気がして。

それから、白洲さんの生き方そのものも、ちょっと気になってるんですよね。なんとなくしか知らないので、良さそうな本を見つけたら読んでみたいな、と思います。

読めて良かったです。またいつか、ゆっくりと読み返してみたいな、と思います。