十二国記 風の海 迷宮の岸 小野不由美

十二国記、二作目を読みました。

風の海 迷宮の岸 十二国記 (講談社文庫)

風の海 迷宮の岸 十二国記 (講談社文庫)

いやあ、やっぱり凄く面白いシリーズですね!
夢中になって読んでしまう。
そして、次の作品を早く読みたくて仕方ない、という気持ちになる。
そういうシリーズに巡り合えて幸せだな、って思います。

十二国記、簡単に書くと、麒麟、という神獣がいる世界の話なんですね。
麒麟は王を選ぶ生物です。ここで面白いのは、麒麟の意思で王を選ぶことが出来る訳ではないこと。
麒麟は、例え、このお方は王には向いていない、と思ったとしても、天啓には逆らえず、その人を王を選んでしまう。
例え、己が王に相応しいとは思えない相手であっても、王として選び、基本的には、生涯、仕えるしかない。
様々な性質の麒麟がいるのですが、共通しているのは、慈悲の心に溢れ、争いごとや殺傷を忌み嫌うことです。極端に血に弱く、その気配だけで病んでしまう。

ざっと書いていっても面白さが全然伝わらないのが難しいんですが、麒麟という生物の性質、そして、麒麟と王の関係性が、このシリーズの大きな魅力の一つです。皆、王の器であることは間違いないのに、良い王、失敗する王、色々な王がいる。そして、麒麟も個性豊かです。
大前提として、麒麟はとにかく王を絶対に失いたくないんですね。理由はただ、王だから。絶対的に己の王を慕う。そういう生物です。まあ、それを表に出すか出さないかはそれぞれの麒麟の自由なんですけど(笑)、その王への揺るぎない気持ちというか何というか、が、また物語を面白くするし、そこが私がグッとくるところでもあります。
王の、そして麒麟の選択や行動に一つ一つの国がかかっているから、物語は壮大になる。それでいて、それぞれの登場人物の揺れ惑い方がしっかりと描かれている。

第一作目は慶、第二作目は泰という国に新しく王が即位するまでが描かれているのですが、同じ麒麟が王を選び、王が即位する、というまでの流れが、こんなに違うように描けるのか、という驚きがありました。麒麟も王も完璧ではない。それがこんなにも面白い。
世界観がしっかりしているからこそ、こんなに面白く描けるんでしょうね。

そして、第一作目も第二作目も、王に相応しい人物とはどういう人物か、ということを考えたくなる。
民を治め、国を治め、王として立つに相応しいのはどんな人物なのか。結構、究極に近いような気がするこの問いの答えの一端が、登場人物達の苦悩や描かれ方から見えてくるような気持ちになります。

また、王も麒麟も、描かれ方が本当に魅力的なんですよね。言動それぞれが、聖人君子ぶりすぎるわけでなく、それでいて重要な場面での行動や咄嗟のときの言葉に、器の大きさが表れていて。王と麒麟の組み合わせも、それぞれの国が個性的で、とても面白くて。

第二作目の泰王と泰麒も、それぞれ、とても魅力的でした。そして、もう一人、魅力的だったのが、女怪という麒麟の親代わりになる生物です。冒頭はこの女怪が産まれるところから始まるのですが、そこがもう既に好きでした。女怪は産まれる時すでに、「泰麒」というただ一つの単語が頭にある。そして、己が育てる麒麟の実をつけた木のもとへ走り、ただ、「泰麒」と呼んで泰果に頬を寄せて涙を流す。十か月。ひたすら、泰麒が産まれるのを木の下で一心に待とうとする、その情の深さ。

王に対する麒麟の想い、そして、麒麟に対する女怪の想い。こういうのに、私は弱いんですよねー。
ただ一人の人物の為に全てがあることを定められた生物。憧れに近い気持ちがあります。羨ましい、にも近いのかな。ただ一人のその人をひたすら、抗えないレベルで探し、大事にして、慕い続ける。その相手が跪きたい、と思える程の人だったら、それはある意味、究極の幸せなのかもしれない、って思います。

まあ、麒麟の生はそんな生易しいものではなく、全てが王の為、民の為にあり、その死後、死骸は自分が使う妖魔に食べられてしまう、そして、王が道を外れれば己が病んでいずれ死ぬ、という過酷なものなんですけど。王が死ねば麒麟も死ぬ、麒麟が死ねば王も死ぬ、というのが原則です。この関係性がまた魅力的なんですよね。麒麟の慈悲の心だけでは国は治められない、でも、王が民や慈悲を全て忘れて無視しても国は治められない。両者のバランスをどうとるか。というのも、このシリーズで描かれることの一つです。

そして、このシリーズでは、女だから活躍できない、ということがない。それも良いんだろうと思います。殊更、女だからどう、という書かれ方をされていないんですね。一作目の慶王にしても。女王になりましたが、それがどうこう、というものではない。ただ、王として描かれる。
奥深い作品なので、これからも読み進めていくのが楽しみです。