謝るなら、いつでもおいで 川名壮志

昨日、借りて一気に読みました。

謝るなら、いつでもおいで

謝るなら、いつでもおいで

2004年、長崎県佐世保市で、11歳の女の子が同級生の女の子の首をカッターで切って殺害した事件を覚えてらっしゃるでしょうか。

私、あの時、確か、同じ学年だったんですよね。小学校六年生。
あの事件があって、ニュースを見たとき、「この年齢で人を殺してはいけないことが分からないなら、もう駄目だ」って思ってしまったのを、凄くよく覚えています。同じ年だったからこそ、今、分からないならもう駄目だろう、と思ってしまった。
もう分からないといけない年齢、子供だから分からない、とは言えない年齢だろう、と感覚的に思って。
何が駄目なのか分からないんですけど。子供って自分の感覚だけで判断してしまうものなんですかね。

その印象が凄く強かったので、ゼミで先生からこの本の紹介があった時に、読んでみよう、と思いました。

被害者の父親は毎日新聞の記者だった、取材する側だった人物が取材される側に回った、というのが、この事件の特徴の一つだと思います。
この本は、被害者の父親の直属の部下だった方が、被害者の父親、兄、そして加害者の父親の声を聞いて書いたものです。

読んでいて一番、感じたのは、本当に「普通」といって良いくくりの子供達だったということでした。
トラブルと呼べるものも一応、あったとはいえ、大きなものではなく、加害者に大きな異常があるわけでもない。加害者は後に発達障害だと診断されてはいますが、発達障害は異常、ということではない。きっと、ほとんどの人が、多かれ少なかれ、普通から外れたところ、あるいは、非常にこだわりが強いところ、出来ないこと、というのは、抱えて生きているものですよね。子供はそれが分かりやすいだけで。
加害者の家庭環境が酷かった訳でも無く、愛情をかけて育てられなかったわけでもない。

異常な子供がやったことではなく、誰でも、こんなことをしてしまう可能性はある、加害者にも被害者にもなってしまう可能性が十分にあるのだと改めて思いました。子供は天使でも悪魔でもない。ただ、加害者となった子は、ふと線を越えてしまった。
それが、どれだけのものをもたらすのか、ということを具体的にイメージすることが出来なかった。それを「幼い」というのかもしれませんが、成人してもそれが出来ない人も沢山いるよな、と思います。

もうどうしようもない現実の中で、残されたほうは、大きすぎる喪失を前に、どうすれば良いか分からない。
被害者のお父さんの手記は、胸が詰まりました。もう帰ってこない娘への愛情と労わりだけが伝わってきて。
何故、ということを問わずにはいられないけど、恐らくそれは加害者の子にしか、あるいは、その子にも分からないかもしれない。

加害者の子の家庭の育て方にも、特に問題があったとも思えない。
「過ちを犯した子どもの親がすべて、子供を愛していなかったわけじゃないんです。」「愛されている感覚がもてない子供もいるんです」という福祉関係者の方の言葉が刺さりました。私、だいぶ前に書いたと思うんですけど、完全にこのタイプの子供だったんですよね。
親が悪いわけじゃない。親は、きちんと愛情は伝わってるはずだと思ってるのに、子供のほうがどうしても愛されてる感覚を掴めない。そういうことが、本当にあるんですよね。申し訳ないけれど。

今、自分が大人といえる年齢になって、じゃあ、どういうことをしてあげられるのかな、って思います。
子ども同士のことに親や大人が入るのは、基本的には良くないし、線引きも難しい。
結局、子供を一人にしないようにして、ただ、見守りながら愛情を分かりやすく伝え続けてあげることが大事なんだろうな、と思います。多分。

それから、被害者の子のお兄さんの言葉、考え方が一番、沁みました。
「謝るなら、いつでもおいで」というのも、お兄さんの言葉なんですよね。
それは優しさどうの、悟ってどうの、ではなく、「結局、僕、あの子に同じ社会で生きていてほしいと思っていますから。僕がいるところできちんと生きろ、と。」ということから来てる。
10年経った今、当時14歳だったお兄さんは、この考えに来てらっしゃる。ここまで、どれだけ大変で、苦しかったんだろう、と思うと、もう。
ついこの前、近くで被害者の子のお父さんとお兄さんの講演会があったんですけど、行けなかったんですよね。
お父さんもお兄さんも、自分の感情を表に出すのは苦手なタイプの方、ということなのに、それでもお話されてる。

私は、「大切な何かが」とか、「考えさせられた」とか、って聞くと、曖昧に逃げられたように感じてしまって、「何か、ってなに?大事な物ならあやふやにせずに言えるんじゃないの?」とか、「考えさせられた、って何をどんなふうに考えたんですか?」とかって思ってしまう、凄く嫌なタイプの人間なんですけど、この本には、そういう誤魔化しが無かったように思います。どの人の言葉にも、文章にも。
皆さん、誤魔化せないところまで行った、そういう事件だったんだろう、と想像します。

今はもう、私と同じ年の加害者の女性は支援施設を出て、どこかの町で暮らしてるんですよね。
本村さんの本を読んだときも思いましたが、遺族も加害者側も、皆が、重くてとても抱えきれないようなものを抱えて生きて行くことになる。
命には、こういう重さがあるんだな、と思います。

出来ることなら、全ての幼い子供たちに、それが自然に伝わりますように。