第三者であること。

重たい内容になると思うので、下げます。

罪と罰

罪と罰


今度、授業でディベートをやるので、死刑制度に関する、上の作品を含めた9冊の本に、ざっと目を通しました。それで、知らなかったことを知ることが出来たり、様々な考え方に触れることが出来て良かった、とは思うんですけど、どうしても引っかかることがあるんですよね。

それは、ディベートで、当事者や司法関係者ではない第三者が、刑法や刑罰について、(ある意味)気楽に語ることの無神経さです。特に、「死刑制度は廃止するべきかどうか」というテーマは、高校生や大学生のディベートのテーマとしてよく使われるみたいなんですけど、どうしても、自分で家族を作ったことがなく、人生経験が浅く、それほど多くの感情を知らない私達の世代が、「遺族感情は〜」と、分かったように口にすることに抵抗があります。今回は、準備期間が一週間しかないので、余計にそう感じます。

あの刑は重すぎる、軽すぎる、死刑はどうだ、ああだ、と、それほど勉強してもいない人間が好き勝手に発言することへの嫌悪感、というか。まあ、それを言い出したら裁判員裁判をどう考えるんだ、ってことになるし、誰なら語って良いのか、ってことにもなるんですけど。

光市母子殺害事件に関する本を読んだのは、3年ぶりくらいになるのかな。

なぜ君は絶望と闘えたのか

なぜ君は絶望と闘えたのか

この本が、刑法、刑罰、人間は環境次第で決まってしまうのか、人間ってなんだ、って考え始めるきっかけの一つだったのは間違いありません。そして、何かを背負って生きていくことがどれだけ辛いことで、犯罪、特に殺人がどれだけ取り返しのつかないことなのかを意識しだした本でもあります。

あれから3年経って、より真剣に「人間」や「命」というものについて考えたくなった今、改めてこうやってこの事件に触れる機会を得た、ということに、腹をくくらないといけないな、と感じました。

大学では、単位を取ることが出来るくらいの勉強をしようかな、とも思ってたんですよね、本当は。答えが出ないことを、自分は当事者でなく、第三者なのに、という後ろめたい気持ちを抱きながら考え続けるのは、きっととても大変だろうし、何より、やりきれない思いや、息が詰まるような思いを何度もすることになる。今回の死刑制度について考える、知ることも結構しんどかったし。それでも、私は、やっぱりそういうことを、時間をかけて考えたいと思ったから大学に来たんですよね。お金をかけて。うん、腹くくってガッツリ勉強しよう。

人間はどうしようもないものなのか、違う価値観を持つ、大勢の人間が共生するのに必要なものは何か、環境が人間を決めてしまうのか。とにかく、4年間、しっかり向き合ってみたいと思います。そして、「答えは出ないから。人によって違うから。」っていう結論で終わらせたくない。自分の中だけでしか通用しないようなものでも良いから、何らかの答えを出したい。答え、というか、自分なりの考え方を持ちたい。