初日感想 3

少し間が空いてしまいました。
明日はMステですね、楽しみにしています。

今日で感想はとりあえず書き終わるかな、と思ったのですが、ソロだけで長くなったので、曲の感想や全体的な感想とは分けようと思います!


今回のコンサート、特に思い出そうとしなくても不意に浮かんでくる、という歌声や場面がいくつもあって驚きます。

正直、特に前半、凄く力が入ってたんですよね。
なんだろうなあ、単純に、剛さんがあそこまで苦しそうにされてると思っていなかった。
その衝撃がやっぱり大きくて、最初のほうなんかもう、歌声を追うのが精一杯くらいの気持ちだったので、今回、「ちゃんと記憶しよう」とか「感じ取ろう」とか、あんまり思えなかったんですよね。

その余裕が全然無かった。

なのに、意外と、下手したら今まで参加したどのコンサートよりも記憶が残っているような気もします。
何かを感じる余裕があんまり無くて、自分の感情が入る余地が無かったからかな。
人間の心理は不思議だな、って改めて思います。

ということで、ソロから書いていきたいのですが、今回のソロコーナー、去年ソロコーナーをやっていたからこそ、自然な流れで取り入れられたんだろうなあ、と思うと、去年、試みておいて良かったな、って感じました。

ソロをやることで、剛さんは少しの間、耳を休ませることが出来るし、光一さんはアンプや特効を使うことが出来るし。

ということで先に光一さんのソロですが、意外だったなあ、と思います。

私は光一さんのソロにはそこまで詳しくないので(剛さんのソロにも、詳しいとは全然言えないんですけど!)、、パフォーマンスそのもののことしか分からないのですが、去年とは違うコンセプトでソロを組まれたんだろうな、って感じました。

「暁」、「SHOCK!」、」「愛の十字架」。
三曲とも、曲は知っている、というくらいの感じだったのですが、今回、踊る曲が少なかったぶん、ソロコーナーは全曲踊る、くらいの感じなのかと思ったんですよね。

でも、ガッツリ踊ったのは結局、「SHOCK!」のみだったのかな。
アンプも特効も光一さんのソロコーナーでは使われていたので、盛り上げる時間にされるのかな、と思ったのですが、やはりオーケストラと折角共演出来るから、という気持ちがおありだったんでしょうね。

「暁」
光一さんが初期からお好きな路線だよなあ、って思いながら聴きました。
和の雰囲気の曲調+物語っぽい歌詞+英語詞が入るっていう。
この路線に関してはつくづく、光一さんは御自分のお綺麗さをきちんと効果的に使ってらっしゃるよなあ、って思います。率直に言って、半端な綺麗さの人では成り立たない歌詞と曲調だよな、って。
光一さんのそういうところ好きです。どこまで意識されてるか分からないですけど。

「SHOCK!」
この曲、多分、踊られてるところは初めて見たと思うんですけど、曲終わり、光一さんがだいぶしんどそうにされていたのが、ちょっと意外でした。
パッと見た限りでは、ダンサーさん含め、そこまでキツい振りでもなさそうに見えたのですが、色々と使うんでしょうねー。映像化したらじっくり見てみたいなと思います。

そうそう、この曲では、光一さんといえば群舞だもんなあ、って思いました。
コンサートで久々に生で群舞を見たのですが、ダンスが好き、踊ることが好き、という方で、群舞に行ける方々は凄いなあ、と改めて思います。

群舞ってどうしても、合わせる必要があるから、制限される面がある。
そのぶん、全員で一つの表現を作る面白さはあるんでしょうけど、ダンスという表現が好きであることと、ある種のパーツに徹することを、自分の中で両立させるのって、出来る人にしか出来ないだろうなあ、と思います。
目立ちたくないけど踊るのが好き、という人は珍しいというか、ほぼほぼいないから。

そして、群舞のセンターをやることが出来る、というのは本当に、選ばれた人であることの分かりやすい証なんですよね。そして、光一さんは多分、ソロではずっとセンターをやり続けてらっしゃる。
なんというか、群舞のセンターって、そのポジション自体が好きな人じゃないと、「したい」と長く思い続けられないと思うので、光一さんが主演ミュージカルという道に行かれたのって正解だったんだろうなあ、ってつくづく思います。精神的にも向いてらっしゃるから、ここまで長く続けられてるんだろうな、って。

等々、かなり大きく光一さんソロの事を改めて思いました(笑)

「愛の十字架」
これも改めて歌詞を聴くと、美形さんしか歌えないというか、光一さんが歌うからこそ成立する、みたいなところがありますね。
歌詞も曲調もこう、女性というか、少女というか、乙女の夢が詰め込まれていて、かつ、それをあの綺麗な光一さんが歌われる、という豪華さ。

今年のソロコーナーを見ると、光一さんのファン層と宝塚さんのファン層って重なるのかな、もしや、という気持ちになりました。
光一さんはやっぱりこう、なんだかんだ言っても、宝塚さん的な意味での夢があるタイプの芸能人なのでは、みたいな。
実際はどうなんだろうなあ。
大きく「舞台」というくくりでは共通点もありますよね。

ある意味では、現実味が乏しくなるくらいに、曲も歌詞も御本人の小作りなお綺麗さも、過剰にロマンティック。
これは多分、光一さんのロマンチストな面と、お顔の綺麗さ、動きの優雅さ、あらゆるものが揃わないと成り立たない世界観だと思うので、そこら辺には転がってないだろうなあ、とも感じます。
今回は選曲もあって余計、この方面が強調されたんでしょうし、凄く面白く見ました。

個人的には、去年のソロコーナーの勢いとかっこよさが好きだったんですけど、オーケストラならではの今年になっていたように思います。

ということで、次は剛さんソロの感想です。
やっとここまで来たというか、まだ言葉が見つからないというか。
まずは、光一さんが御着替えしてらっしゃる間の剛さんのお話しから書いていこうと思います。

以前は、こうして一人にされると何を話せば良いかも分からなかったけど、今はここにずっと立ってるだけでもいられるくらい、みたいなニュアンスのことをおっしゃる剛さん。

そこから、無理はしてる、でも、無理をするだけの意味がある場所がある、ってお話しされてて、やっぱり剛さんはこちらの方だよな、と思いました。
無理をしないでいることが出来ない。
ゆっくりでいいから、とはならない。
私はリアルタイムでは知りませんが、剛さんのこれまでの御病気の名前からして、もし剛さんがこういう考えの方じゃなかったら、ずっと前にキンキさんは立ち止まらないといけなかっただろうな、と思います。

これ、今回の初日に入らせていただいての、素朴な感想の一つなんですよね。
剛さんが、なんとなく予想していたよりもずっと必死に、本当に頑張ってらっしゃるのが伝わってきて、ああ、この人、今、この状況でこんなに頑張ることが出来るってことは、今までもキンキが存続する為に、キンキである為に、物凄く頑張ってこられたんだろうな、って。

実際、後追いで知ることが出来る病名や情報だけでも、剛さんの症状でキンキを存続させ続けたのって、並々ならぬ努力とお気持ちが無いと不可能なことだっただろうな、と強く思うんですよね。

剛さんが20回目の今年、どうしてもドームに立ちたくて、途切れさせたくなかったのは、今まで続けたのが、決して楽ではない道だったからなんだろうな、と思います。
そして、そう思って初めて、入院中に「自分のこの20年は何だったんだろう」みたいなお気持ちになられたってそういうことなのかな、って感じました。
どんなに辛くても止まらずにやってきたのに、20年目の今年、耳の病になって、仕事に穴をあけてしまう。
それは、剛さんにとっては、ここまで病気や辛さの中でも繋げてきた20年の努力が、ここで途絶えてしまう、という感覚だったのかな、って。

「自分のこの20年は」っていうのを知った時、分かるようで分からないというか、そういうお気持ちになられたのが、どこか不思議だったんですけど、無理してでも、というお話を聞いて、もしかしたら、と思いました。
全然、分からないんですけどね。
剛さんの立場と、剛さんの御経験は、想像しようにも、あまりに特殊すぎる。

そして、無理はしてる、とおっしゃるとこ、本当に好きだな、と思います。
無理してないわけがないですもんね。
凄く誠実だし、シビアだし、現実的。
何より、剛さんの価値観とか、無理をしてであってもやりたいというお気持ちが、率直に伝わってくる。

ここで、「無理はしないようにしてるし、負担も無いし、全然問題ないです、大丈夫です」って言う選択肢もあるし、そういう美学もあるんでしょうが、結局「本当は無理してるだろうに・・・!」ってやっぱりなるんですよね、言われる側は。この流れは、それこそ、美談っぽくなるし、嘘っぽく、安っぽくなりやすい。
この流れのほうが好まれやすいし、一般的でもあるんでしょうけどねー。
特に、日本ではこの傾向が強いように思います。

でも、剛さんは、そういう流れにはしないんですよね。
別に、流れが云々って考えてらっしゃるわけではないでしょうけど。
なるべく嘘をつかないように、と思われてるだけで。
それに、大丈夫だと言い張れるほど、辛さを取り繕える状態でもないんでしょうし。

ここら辺は、難しいところなんだと思うんですけどね。
「万全の状態でしかやるな、辛そうにされたら心配だから」と言われたら、剛さんはいつステージに立てるのか、立てるようになるのかも分からない。

それに、万全の状態の人間なら絶対に良いパフォーマンスが出来るのかと言えばそうではないし、万全の状態ではない人間が無理してやるパフォーマンスは絶対に良くないものになるのか、と言えば、そうではない。

それが、エンターテイメントの残酷なところであり、魅力的なところでもある。
だから、剛さんが芸能の方である以上、安易に「先の事を考えて無理はしないで」とは言えないよな、と思います。
特に、剛さんみたいな、苦しくても止まることが出来ないタイプの方には。
勿論、無理なく出来るにこしたことはないんでしょうけど。

ということで、前置きが長くなりすぎましたが、剛さんソロ。

最初、椅子とノートパソコンが出てきたときは、何が始まるのかな、って、全く予想がつきませんでした。
それが、一曲、あれ多分、PINKがベースなんですかね、イノチトボクラを思い出す瞬間もあったんですけど、その曲に合わせて、剛さんが踊られて。
合わせる、というか、あの曲の中に漂って、という感じもあったかな。

剛さんが一曲丸々踊られる、歌も歌わず、楽器も演奏せず、って、本当に珍しいというか、ほとんどないことなんじゃないかと思います。

これが、本当に凄かった。
ああいう、テンポでのらせるわけでもなく、激動するようなうねりのある音楽であるわけでもなく、大きなセットがあるわけでもなく、激しく動くわけでもない表現って、物凄く難しいと思うんですよね。
しかも、場がドームって、輪郭がハッキリとしている、個性のかたまりみたいな人じゃないと、空間に負けてしまう。

本当に、ひたすら、ただただ、本人の、剛さん御一人の表現力とセンスと技術だけが物を言う世界でした。
あれで、あそこまで場をもたせて、惹きつけて、一曲の世界を成立させる、って、剛さんならではだな、と思います。
あれも、出来る人にしか出来ない。
そして、私はあれが出来る人が好きなんですよね。
それこそ、見る意味がある、と心から思える。
誰にでも出来るようなことではないから。

全ての動きの滑らかさ。
音の芯を捉えて、その芯に正確に当てて動くことが出来るという、音楽に愛された人だからこその能力。
ただ手を伸ばすだけ、求めるだけ、移動するだけ、それだけでも、繊細で強い表現になる感性の豊かさと表現力。

剛さんの芸事の才能をまだまだ自分は分かっていないんだな、と痛感しました。
剛さんが躍ること(と言って良いのかすら迷うくらいに純粋な表現でしたが)だけに集中したとき、こんなにも情感豊かな世界が出てくる。
雑味の無い、邪魔が入らない、剛さんだけの世界の表現。
下手したら歌うよりもこうして踊ることのほうが、剛さんの内面の表現(他者に対するメッセージでなく)という意味では、優れた方法なのかもしれない、と思わされるくらいに凄かった。

これはもう、剛さんの身体的な能力、滑らかで柔らかな動きが出来る技術、リズム感、そして、表現されるだけの奥行きと広さのある独特な精神性、どちらもが揃わないと出てこない、唯一無二の表現だなと感じました。

歌と踊り同時には出来ないから、踊りだけに集中する、というところまでは、なるほど、といった感じですが、その踊りの種類がこちら側だとは思わなかった。
私が知ってる範囲では、の話ですが、剛さんもここに来て、新たな表現方法を提示されたような気がします。
引き出しがありすぎる。本当に衝撃的でした。
長年、やり続けてるわけでもないでしょうに、このジャンルであそこまでクオリティが高いって、凄すぎる。

また、踊るにしても、今の状況を、ここまで率直な形で表現されるとは、とも思うし、それと同時に、今やるならこうしないと意味がないだろうな、とも思う。
今、必要な表現は確かに、見栄えのするステップや、かっこよさ、といった方向ではない気がする。

剛さんにとって、御自分を表現することは、苦しみや辛さや悲しみと表裏一体で、綺麗なだけではすまないんでしょうね、いつだって。
ただ、剛さんには、御自分の感情を表現するだけの技術とセンスがある。
それに関しては、欲すれば得られるわけではない物だから、恵まれたものを改めて感じます。
間違いなく、剛さんにはギフトが贈られている。

勿論、それを最大限に引き出す努力と工夫もないと、あそこまでのものにはならないと思うので、剛さんが努力される、真面目な方であってくれて良かった、とも思います。

頭を抱えておりていく表現は特に、滑らかな動きの美しさ故に、辛さが作品にまで昇華されていて、印象的でした。
冷静に自分を突き放して見る視点が無いと、あんな動きは出来ないし、あんな表現は出来ない。
剛さんのその冷静さを物凄く好んでいますが、その冷静さが辛いなとも思います。
悲劇に浸るようなことが出来たら、救われる面もあるんだろうにな、って。
それが出来ない、ある種の冷ややかさが好きなんですけど。

単純に、光一さんの感想を聞いてみたいな、ともぼんやり思いました。
キンキさんの表現は本当に真逆で、お互いが手に入れられないものを持っている。
元々そうなのか、そうなったのか。
ここまでハッキリと逆方向に優れていることは二人組としての強みだな、って改めて感じましたし、二人続けてのソロでそれが明確になるのって凄いことだよな、って思いました。

前半だけでも衝撃を受けましたが、歌。「これだけの日を跨いできたのだから」。
これはもう、剛さんの、歌ってきた人としての、表現し続けてきた人としての凄みを感じました。
素晴らしかった。

そもそも、暗くなって、歌詞も出ないままに、
「悲惨な出来事なんてあるのが当たり前じゃない」と響かせてくる、そのストレートな強さ。

また、この歌声が本当に良かった。
強くて、正確で、どこか解放されていて、生々しくて。
あの瞬間の衝撃が凄かったです。
凄く驚きました。
今、この歌をここで、こんな声で歌うのか、っていう。
数日経った今でも、不意に響き渡るような気持ちになる。

剛さんの覚悟や決意が込められているように感じました。
これまでへの、そして、今とこれからへの。

単純に、今、この歌を歌えるなら、本物だな、って思ったのが一番の感想だったかもしれない。

この状況で、先も見えるわけじゃなくて、「悲惨な出来事」と言えるような中にいるのに、「当たり前」というきつい言葉を組み合わせて声に乗せること。

「あたしたちはね 歩んでいるの 一歩一歩と 人生って輝きを」と今、歌われる衝撃。
まだ希望も恐らくハッキリとは見えないくらいの状況で、人生を輝きだと歌うこと。

これが、全然、無理が無かったんですよね。
なんだろう、「それでも世界は美しい」的な感じには聴こえなかった。
これは、剛さんが悲劇の中で蹲る自分、という感じになってらっしゃらなくて、もっとシビアで、下手したらドライなくらいのところにいらっしゃるからなんでしょうけど。
今を踏まえて、それでも、という感じに聞こえておかしくないのに、そうではなくて、なんだろう、もっと強かった。

もっとシンプルだし、それとこれとは関係なく、何があろうとも「人生は輝き」なんだと言うような。
ここは本当に胸を打たれました。
今、こう歌えるこの人は本物だな、って思った。

そして、人生は輝きなんだと、少なくとも剛さんは、ふわふわした思いと全く無縁な強さでそう思って歌ってらっしゃるんだと、真っすぐに伝わってきた。
しかも、剛さんの人生だけでなく、私達の全ての人生は輝きなんだ、と言われてる気がした。

すみません、ナチュラルにいつもの、どこの電波を受信したんだ、っていう感想に入っちゃいましたが(笑)、でも本当に、あの瞬間は凄かったな、って思います。

剛さんが歌う「人生って輝きを」も、この歌自体も、剛さんが見舞われた病に全く負けていなかったな、って感じます。

歌う人にとっての耳、という物凄く辛い病に見舞われても、剛さんがこの歌に込めた想いは翻らなかったし、弱まらなかった。
それって凄いことだな、って思うんですよね。

愛を鳴らせ、と歌う事、空も愛と歌いかえること。人生を輝きと言う事。
大きい辛さに見舞われても、剛さんの理念というか、主張、あるいは信念、そういうところが、少なくとも今の時点では、全く覆されていない。
その想いの強さに圧倒された気がします。
この状況で、しかも今まだ、発症から半年程でこれを歌えるって、本物だな、って思って。

剛さんにまつわる言葉でいうならば、これを今、歌えるということは、この曲はまさに、嘘が無い歌だったんだな、って思いました。
こんなに強くて、ある意味、今の状況では痛みもある歌詞なのに、今、歌えるんだもんなあ。
剛さんは凄い。
そして、その剛さんの信念の強さを感じたことが嬉しかったし、その強さに感動したんだと思います、今、あの驚きを振り返ると。

そして何より、歌い方がこれまでとはまた違ったように感じて。
ただ噛みしめるだけじゃない。
ただ、高らかに歌うだけでもない。
ただ訴えかけるだけでもない。

理想が等身大になって、その等身大をただ、今、あなたに伝えようとする、というような。
この歌、前は、ある種の理想というか、そうであろう、とするような歌に聴こえていたんですよね。
そうでありたい、というか。

でも、初日に聴いたこの曲は、本当に等身大、今、こんな風に一歩一歩と人生と言う道を歩んでいる自分が、同じように一歩一歩と歩んでいるあなた達へこの歌を歌う、という、そういう歌にして聴かせてくださったように感じました。

今までとはまた全く違って聴こえた。
精神論だけでなく、歌い方も、余分なものが削ぎ落された、より伝わる速度が速くなるような歌い方になってらしたような気がします。今の耳の状態だからこそかもしれません。

なんだろうなあ、私、実は、この歌にはそこまで強い思い入れは無かったんですよね。
前にも書いたかな。
どちらかと言えば、「美しく在る為に」に弱いんです。

でも、初日に聴いたこの歌は凄かったな、と思います。
今の剛さんが歌うこの歌は、今までとはまた違う色と力を持ってる。

もっと言うと、この歌だけでなく、今の剛さんの歌には、遊びがあまりないんだと思うんですね。
そして、それがまた、今までとは違う魅力になっている。
勿論、剛さんの自由に遊ぶ歌声も凄く好きなんですが、今の、遊びがないぶん、ストレートに空気を震わせて、直球で届く歌声も、剛さんの今までは前に出ていなかった魅力が出ているように感じます。

「これだけの日を跨いできたのだから」で一番、強く感じて、「TIME」とか「ボクの背中には羽根がある」でも感じたのですが、あの日、心底感じたのは、「ああ、剛さんは歌う人なんだ」ということでした。

今更、という感じなんですが、なんだろう、また一つ次元を超えてしまって、剛さん、というだけじゃなくて「歌う人」になってしまった、という感じがして。

あの感覚はなんだったんだろうなあ、上手く言葉に出来ないのですが、手出しが出来ない領域で歌う人になってしまった、という感じ。
いや、今までだってそうなんですけど、なんだろう、より純粋な領域、より圧倒的な領域で歌う人になってしまった、という感じ。
剛さんにとって、歌うという事の意味がまた変わったように感じた、というか。

まあ、状況に引っ張られてそんな風に感じただけの話なのかもしれないんですけどね!
でも、数日経っても、あの、「歌う人」になってしまった、これは「歌う人」の歌だ、という感覚が抜けないんですよね。
歌う人ってなんだ、って感じなんですけど。
なんだろうなあ、歌うべき人、歌に決められてしまった人、歌わなければならない人、歌うことに愛された人。
そういう感じ。
歌以外の色々な物が削ぎ落されてしまったような。
これは、実際、今回のコンサートがそうでしたけど。

間違いなく歌で何かを伝えられる人、と言い換えても良い。
今までだってそうだったんですけどね。
今までより一つまた違う次元で、もっと素朴に、歌に身を捧げる人、という感じ。
美しい音の連なり、声の連なりとしてだけでなく、より言葉の力、意味が前に出るような。

今後の剛さんの歌声はどうなっていくのかな。
どうか剛さんが、これからもずっとずっと歌い続けていかれますように。
これからの剛さんの歌声も楽しみだな、と、素直に思える時間でした。

感覚の話はここまでにして、歌詞として、キンキさんというアイドルグループのコンサートで、アイドル自身が、
「花は枯れゆくものよ 年は老いてゆくものよ」と歌うことの意義も思いました。
剛さんは、ここから目を逸らされないんですよね。
この面に関しては、光一さんタイプの方の側に剛さんみたいな感覚の方がいらっしゃるという事に関して、心強いというか、安心に近い気持ちがあります。
ああいう御職業だと特に、そことの折り合いは難しいだろうに、凄いな、とも思うし。

お二人共に、それぞれの魅力が出ていて、一刻も早く映像で自分が見た物を確かめたくなるようなソロでした。