平安神宮公演

フェスが欠席なら、平安神宮公演をやるのは色々な意味で難しいのではないかと思っていたので、驚きはほとんど無かったのですが、やはり、やるせないなと思います。

剛さんの為にはやったほうが良いだろうけど、剛さんのお身体の為にはやらないほうが良いんだろうな。

こうなって改めて、ありがたいことに御縁をいただいて、平安神宮公演で聴いた剛さんの歌声を思います。

まず思うのは、剛さんの歌声は、あの空間に、あの場に、あの夜空に、今も、間違いなく溶け込んでいる、と感じられることです。

消えてなくなるんじゃなくて、空気に溶け込んでいく歌声であり、音楽であり、大きな言葉を使うならば、魂であると感じたこと。

もう既に、重ねられた剛さんの美しい全てが、歌声が、あそこに何らかの形で今もある。残っている。

だから、今、実際には剛さんが公演を行えなくとも、そういう意味では、他の事よりは少し安らかな、静かな気持ちでいます。
そう思えることが幸福だとも思う。

今はまだ、昇華させてしまうべき時ではないということなのかもな、とふとよぎるのも、神宮という場の性質ならではかな、と思いつつ。

とはいえ、個人的には色々な感情が出つつもそう思えても、剛さんのお気持ちを想像すると、やはり辛いな、と思います。
いつ治るのかの目処すら無いのに、やりたいこともやれずにじっと待て、ゆっくり休め、とか本当、自分だったら、と思うと。
絶対に耐えられない。

それでも、下にも書いた通り、剛さんは這い上がらずにはいられない、しゃがみこんでしまえない方だと思っているので、その、剛さんの強い美しさが損なわれませんように、と心から願っています。

今までに参加させていただいた平安神宮公演の自分の感想を読み返したら、あくまで自分にとっては、なんですが、驚くくらいに、今の状況への気持ちに通じるようなことを書いていて、人間、そうそう変わらないのかもな、ってしみじみ感じました。

剛さんの、美しい、孤独な強さ。

今回、聴力という、外からは分かりづらいのに、ご本人にとっては一番といっても良いんじゃないかと思うくらいに大事な力にきたことにも、剛さんの哀しさを感じます。

外傷とは違って、見えにくくて、結局のところは、聴こえにくいその感覚も、剛さんにしか分からない。

勿論、どんな痛みも、その人にしか分からないものなんでしょうけど。
剛さんの御病気はどれも、なんというか、経験がないと、想像もしにくいような性質のものが多い気がします。

しかも、今回は特に、同じ病名でも、症状も治り方もかなりばらつきがあって、共感もちょっと難しそうなのをなんとなく知る度に、剛さんがこの病になった難儀さを改めて思います。

剛さんは、こんなに、あんなに愛されている方なのに、どうしてこういった種類の孤独に縁が深いんだろう。

今までの御病気でも思ったんですけど。

よりによって、理解されにくかったり、自分でなんとか付き合いかたを探ったりしなくてはならない、症状も外からは見えにくいものが多い気がします。
そしてまた、完治する確率が低くて、どうしても一生の付き合いを見据えざるをえない。

そして、ある意味、お医者さんにすがるしかない、というような物とは違う病だし、手術すれば良いようなものでもない。
治療方法すら、確立した、スタンダードなルートが少ない。

難儀だな、と思います。

そして、そういう病が重なっていくのが、剛さん御本人の哀しい孤独さという性質を強めていくようで、怖いような、諦めに近いような、何とも言えない気持ちになる。

愛を尊ぶ剛さんだからこそ、本質的な孤独と共に歩むしかないのかもしれない。

それが不幸とは思わないんですけど。

剛さんの聴力が、少しでも多く戻りますように。
そして、剛さんのお気持ちが、少しでも安らぎますように。

本質的な孤独とは別に、剛さんの周りには、剛さんを想う方が沢山いらっしゃると思うので、皆さんのお気持ちや動きが、剛さんの慰めになりますように、と願いたいです。

本当に、人が人の為に出来ることってなんだろうな。

どうか、剛さんが捧げる愛が、剛さん御自身のことも救ってくれますように。

最近は本当に、自分のためだけに書いてしまっていて、すみません。