捧げること

私が今いるところは盆地なので、北海道とはいえ、それなりに暑いです。

今日も外気温33度のなか、それより暑いハウスで延々とメロンに向き合いながら、ぼんやりと(暑さで本気でぼんやりしてた気もしますが(笑))、剛さんのことや、自分自身のことを考えていました。

福岡の朝倉、豪雨被害が大きかったところ、父方の本家があるので、親戚がそこそこいるんですよね。

皆、おかげさまで無事で、公民館等に避難も出来ているそうなんですけど。

私、そのニュースを見ながら、酷く冷静でした。
それはいつもそうなんですよね。
9.11の時も、東日本の時もそうでしたが、映像にショックを受ける、とか、映像を見て泣く、とか、全く出来ない。

むしろ、そういう時程、頭の芯が静かになって、普通に、というと変なんですけど、見えるままに受け止めることしか出来ない。

自分のそういう性質を卑下するような気持ちはあまり無いし、緊急時にパニックにならず冷静でいられる、ということは評価してもらえることが多いので、今まではそんなに気にしていなかったのですが、今回は流石に、自分の冷たさを実感して、少し寂しいような気持ちになりました。

自分には郷土愛のようなものはない、と薄々分かってはいたんですけど。

それとこれとは別で、困ってる方々や、被害の大きさを見ると、動こう、と思うので、帰ってからは多分、ボランティアに行くと思うんですけどね。
知ってる土地だし、行きやすいし。
山口に行った時の経験もいかせそうだし。

なんというか、こんな形で、自分の土地や血縁に対する、積もり積もった冷ややかな気持ちを実感するとは思っていなくて、本当に、何が起こるか分からないんだな、と思います。

地元であっても、冷静に見てしまう。
むしろ、地元だからこそ、こんな風に受け止めてしまうのかもしれない。
勿論、被害に胸が痛むし、それぞれの方だけを見れば、やはり辛い気持ちになるのですが、地元だから、知っている土地だから、という特別な感覚は無い。

岩手に行ってからは、自然災害に対する感覚自体が変わった気がするので、もしかしたら、そういう関係もあるのかもしれません。

ということで、自分の性質に思いを巡らせたり、そしてやはり、剛さんのことを考えたりします。

一周まわって現実感が全く無いような気持ちになったり、歌声を聴いて、この歌声が、剛さんが、と思うと怖くて祈りたくなるような気持ちになったり、その時その時で違うんですけど。

そう、祈る、というとき、私の場合は、神や仏に祈るというよりは、剛さんご本人に祈りたくなるんですよね。

剛さんを神仏として扱うんじゃなくて(笑)、なんだろう、剛さんが不安なく幸せに、良い状態を取り戻せるように、剛さんの身体機能やお気持ちそのものに対して、どうか良くなって、と祈りたくなるというか。

自分の宗教観と向き合い、メロンと向き合い(笑)
ここに書いたことあったかな、私、昔、子供の頃は怖いくらい宗教に向いてる子供だったのに、どこかで、その糸がふつりと切れてしまったんですよね。
それを惜しくも、嫌だとも全く感じないんですけど。
単に、それこそ、ご縁が切れてしまっただけで。

神仏を持てなくても、それでも祈る、としか言い様の無い気持ちにはなる。
祈る、って多分、私の中では、切実に願う、ということであり、邪念が入らないくらいの強さで懇願する、ということなんだろうな、と思います。

それこそ、剛さん的な言葉を使うなら、自分のありったけの気持ちを自分ではない何かに捧げること。

うん、私、剛さんが「愛を捧げる」っておっしゃるの、剛さんらしい怖いくらいの真っ直ぐさがあって好きなんですけど、捧げるのは、もしかしたら、祈ることにも似ているのかもしれないですね。
剛さんのように、神仏が生活の中、感覚の中に自然に溶け込むような環境で育った方にとっては。
分からないですけど。

今、こんなことを書く気は全然無かったのに、とびっくりしています。
書き出すまで、何を書くかは分からない。

本当は、「ORIGINAL COLOR」と「ある世界」のことを書きたかったんですよね。

つくづく、自分は剛さんのあの感性自体も好きだし、言葉の選び方にいつも不意をつかれるし、その言葉達を、あの声で、あんな風に歌われるって、そりゃあ、この人のファンだよな、私は、って思ったことと、剛さんの歌声が柔らかいこそ、繊細な感性がそのまま伝わるんだろうな、と思ったことを書きたかったんですけど、時間が厳しいので、また今度、書きたくなりそうだったら書きたいと思います。

最近はいつもに増して、書く意味も無いようなことを書き連ねてしまってすみません!

おやすみなさい!