平安神宮公演

今月はじめにまた研修で課が変わったので、なかなか休みもなく、かなり時間が経ってしまいました。
キンキさんのコンサートに関しては、ありがたいことに、福岡初日のチケットが当選だったので、今はとりあえず11月を楽しみにして、明日の勤務も前日の夜にしか分からない、という状況をなんとか乗り切っていきたいと思います!

平安神宮公演、本当に、行けて良かった。幸せでした。
御縁をいただいたことに、心から感謝しています。

とにかく、素朴に、ああ、自分は剛さんのことが好きだな、と感じました。
改めて。
なんて人なんだろうな、と思って。
私の好み、というか、願望を見出そうとしちゃっているだけの可能性も物凄く高いんですけど(笑)、剛さんは本当に、美しい人だな、と思います。

生で見ると、「ああ、この人の美しさはこんな美しさだった、こういう、淋しくて強い美しさを持つ人だった」と気が付いて。
剛さんの美しさって、私にとっては、まさに唯一無二の独特さがあって、ハッとするんですよね。
あんなにアクの強い(笑)方なのに、生で見聞きすると、驚くほど透明というか、きちんとした風通りがあって、突き抜けた美しさもある。そういう意味で、夜の神宮というのは、剛さんにとても似合うな、と思います。
意外と、苛烈さよりも静の美しさがあるようで。

ということで、とりあえずステージからなのですが、今回、竹が綺麗に使ってあって、とっても好きでした。
思わず、翌日観光で行った嵐山で竹の酒器を買っちゃうくらい(笑)
秋のうちに、これで日本酒でも飲めると良いんですけど。

中に光がしこまれた、長さがなだらかに変わっていく竹筒がステージ上にかなり多く並べてあったのですが、その光景自体も幻想的でしたし、その竹の中を気まぐれに歩く剛さんも、夢幻の世界の光景のようで、印象的でした。

そういえば、竹と光の組み合わせは、かぐや姫も思い出しますね。
京都だし。
そうそう、京都と言えば、今回、平安神宮に向かう途中の川沿いで地蔵盆をしている風景に出くわしたんですけど、柳の緑と相俟って、とっても綺麗でした。
ああいう風習がきちんと残っているんだなあ。

今回、ステージもダンサーさんの衣装や面も、かなりストレートな和の路線だったのですが、それがまたよく合っていて、剛さんは折衷するのが上手いな、と思いました。
音楽的にはファンクなのに、和の小物との違和感が全く無くて。
凄く好きだったなあ、今回のステージ。
そもそも、平安神宮という場でファンクをやろう、ということ自体が、折衷的でもありますもんね。

そういう意味では、剛さんはジャニーズさんの色をきちんと継いでらっしゃるんだな、と思います。
SHOCKを見た時にも感じたんですが、ジャニーズさんは、宝塚的なものやミュージカル、和太鼓等々、取り入れられそうなものは何でも取り入れちゃえ、みたいな、折衷的な世界を作るのがお上手なイメージがあるので。

本当は一曲ずつ書きたいんですけど、時間があまり無いので、とりあえず大まかな印象だけ、今日は書いておきたいと思います。

相変わらず、始まるまで物凄く緊張して、いざ向き合わん・・・!!くらいの気持ちだったのですが(笑)、始まって二曲目くらいで、もうここまで来たかいがあった、もうこの時点で報われた、みたいな気持ちになりました(笑)

それくらい、剛さんの歌声や音楽、場の良さがスルリと入ってきて。

今回の剛さんは、今まで数回、生で見た時と違って、色気がダダ漏れている、という感じではなかったように見えたんですよね。
私、今までいつも、生で見ると、剛さんは男性としての色気も凄いな!と驚いていた気がするんですけれど、今回は、強引なくらいの色気が全く無いように見えて、それでいて目が離せない魅力がありました。

全く、ここに来てこんな魅力を見出させられるとは、という衝撃を受けるくらい(笑)

なんだろうなあ、男性性をほとんど感じなかったんですよねえ、初めて。
だからといって、女っぽかったのか、と言われるとまた困るんですけど、でも、なんか今日「女」だな、っていう印象を勝手に受けてしまって。

剛さんは、中性的な人であるというよりは、剛さんお一人の中に、強い男性性と強い女性性が共存していると思っているのですが、今回は、特に最初の数曲は、びっくりするくらい「女」のほうが出ているように見えました。
別に、「婀娜っぽい色気がある」っていう訳ではなかったのが、また不思議なんですけど。

それくらい、なんだろうな、縛りつけられる色が無くて、自分の魂を自由に遊ばせようとされていたのかもしれない。
って、ここまでくると、完全に妄想なんですけど(笑)

動きがまた、ちょっといたいけで、音に対して受動的だったような気がするんですよねー。
音に対して能動的に動くんじゃなくて、音を受けてゆるやかに反応して思うままに身をくねらせる感じ。

うん、それが「女」だと感じたのかもしれない。
動きが、他者を挑発するのではなく、盛り上げるのではなく、ただ自分の動きたいままに、という感じがあったんですよね、最初の数曲。だからこそ、能動的な色気というよりは、場の空気に対して受動的な雰囲気を感じたのかもしれない。
普段より、動きのトメハネがゆるやかで、あまり作られていなかったから余計。

勿論、剛さんだから(笑)、他者の目を全く意識していない、作為的でない動きや雰囲気であったわけでは決してないんですけど。どうなんだろうなあ。剛さんは本当に、感性の人というか、それこそ直感力みたいなものが強い人なんだろうと改めて思います。直感や、あるいはその日の雰囲気、気分に、きちんと身をゆだねられるというか。

そして、剛さんの体のラインや腕のラインは、やわらかで白くて滑らかで綺麗だな、と今回、改めて感じました。
前から七列目のお席だったので、相変わらず、整ったお顔立ちだし、横顔が特に美しいな、とも思いつつ。

そしてまた、動きが少年っぽいんですよねー、台の上り下りとか特に。
パッと台に上る動作や、ストンと台から降りる動作が、凄く瑞々しい。
最近、職業柄、様々な年代の方の動きを見ているんですけれど、ああいう少年のような動きをされる方って見たことが無いので、剛さんはやはり少年の頃からずっとアイドルさんをやってこられているだけあるな、凄いな、って感じました。
いたいけな少年、というわけではなくて、若木のような少年性。

そういう、台の上り下りとか、ふとした瞬間の指先の動かし方に目がひきつけられる辺り、やはり天性のアイドルさんなんだろうな、としみじみと思います。

そして、曲に関してですが、そもそも好きな曲ばかりでテンションが上がったんですけど、どの曲もアレンジが物凄く!!好きでした!!
ゆったり、あるいはしっとりしたアレンジが多かったと思うんですけれど、どれも、ああ、この曲、こんな風になるんだ!という衝撃があって。
剛さんの今の歌声にも、よく馴染み、あっていて。
特に、「Paint it,fill it with love」のアレンジが、かっこよくて、刺激的で好きでした。
「TUKUFUNK」も好きだったなあ。
たった3日間の公演のために、あそこまでの物を作り、流れも作る剛さんは、なんだかんだ凝り性だし、職人肌なところがあるし、黙々と没頭できるタイプの方でもあるんだろうな、と感じます。集中力が尋常じゃないんだろうな、って。
剛さんは、あまりそんな風に見せないし、御本人もどこまで自覚があるのか分からないですけど、さり気なく、プロ根性の塊みたいなところがありますよねー。

そういうところで、妙に、光一さんと剛さんがお二人でキンキをやってきていることに納得します。
妥協ということについて、あるいは、拘るということについて、お二人は多分、こちらが思っているより似ているというか、感覚を共有できるんじゃないかなー、と想像したりもして。

それから、「Believe in intuition」については、会社勤めではなく(といっても、ジャニーズさんは確か株式会社ですが(笑))、感性が最重要の芸能の世界でずっと仕事をして生き残ってきている方だからこその説得力というか、力があって、剛さんならではの曲だな、良いな、と噛みしめました。
剛さんが生きて、掴みとってきた道の上にある曲だからこそ、剛さんがやる意味がある。

そして、剛さんの歌声は、本当に、圧倒的に美しい。
まさに、剛さん御自身が楽器のようだな、と改めて思いました。
剛さんという魂を、あの美しい歌声を通して、震わせる。
あの歌声が空気を振動させる。
それだけで、「忘れがちだけど、世界にはハッとするほど美しいことが沢山あるんだ」って思えます。
あの精神とあの歌声が噛み合わされている、という絶妙さ。
神様は偶に、凄い事を思いつく。

剛さんには、歌、あるいは音楽という手段が、本当に心底合うし、似合うんだな、ということも改めて感じました。
自らの音を鳴らすこと、自らの身体から、声を出して歌うこと、それ自体が、剛さんにはよく似合う。

歌は訴え、と一時期、剛さんはおっしゃっていたと思うのですが、訴えたいことがある剛さんに、あの歌声と技量と才能が備わっていることは、幸福なマッチングだな、と感じます。
聴くほうにとっても、おそらく、剛さんにとっても。

それから、もう一つ、強烈に感じたのは、最初にも書きましたが、やはり、この人は、なんて美しいんだろう、ということでした。
映像でも写真でも、剛さんは凄く使いこなされるというか、色んな媒体で映える方なので、かっこよさや目の大きさ、表情や可愛らしさに惹きつけられることが沢山あるんですけど、生で剛さんを見ると、何よりも強く「美しい」という印象を受けて、驚きます。
ああ、この人はこんな種類の美しさのある人だった、と思うし、それがあんまりにも寂しくて強くて、泣きたくなる。

美しさ、っていうのは何だっただろうなあ、というか、自分は一体何に対して美を感じる性質なのか、ということを考えたくなるくらい(笑)、剛さんならではの「美」にハッとする。

特に感じたのは、「音楽を終わらせよう」の前、一人キーボードの前に座る剛さんの姿でした。
前奏の音も感情が溶け込んでいるようで、剛さんの鍵盤の音にここまで揺さぶられるのは初めてだな、と思いながら、この人はなんでこんなに、哀しくなるくらいに綺麗なんだろうなあ、と眺めていました。

生で見ると、剛さんは、やはり本質的には独りぼっちの人で、誰かに理解されきることは無い、という風に見えてしまうんですよね。
それでも一人で美しく真っすぐで在り続ける強さがあってしまう人で、その強さが、あまりにも「かわいそう」になる。
私、誰かの事を「かわいそう」だと思う事って、失礼だし、自分自身も憐れまれることが嫌いなのもあって、凄く避けたいことなんですけど、剛さんに対してだけは、「かわいそう」だと思ってしまうんですよね。
日常生活でも、誰かを「かわいそうに」と思う事って、ほとんどしないようにしているのに。
剛さんだけは、その強さこそを、憐れむのとはまた違って、なんだろうなあ、哀しみたくなってしまう。多分、私は、真っすぐで強い人をかわいそうだと思ってしまうんだと思います。
そんな人は少ないから。
そういう人は、その真っすぐな強さや、潔癖さ故に、どうしても一人になってしまうような気がして。

でも多分、剛さんが、咄嗟に「かわいそう」になるくらいの強さを持ってらっしゃるからこそ、京都まで行く程に、剛さんの歌声に力を感じるし、救われるような気持ちになるんだろうと思います。

なんだろうなあ、本当にただ単に脆くて、弱くて、崩れて折れてしまう人だったら、剛さんに対して、こんな感情を持たなかったんだと思うんですよね。逆に。
剛さんが、多少、歪であっても、それこそ、再生し続け、自分の力で立ち続けることが出来てしまう強さがある方だからこそ、独りであり続けてしまうしかないからこそ、「かわいそうに」と思ってしまう。

そうとしか生きられない剛さんのその強さがあんまりにも哀しく見えて、何故か、「貴方はどうして、そんな風にしか生きられないのか」みたいな、変なやるせなさや、怒りにも近い気持ちを感じたりして。
もっと楽で幸福な生き方が出来れば良いのに、と、剛さんの強さを、剛さんの為に憎みたくなるような。

それでいて、その哀しいくらいの強い美しさに見惚れるんだから、勝手な感情にも程があるんですけどね(笑)
本当に、「鏡よ鏡」じゃないんですけど、「今自分は、この世で一番美しい人間の姿を見ている」って思う位の美しさを感じました。

それから、同時に、強烈に感じたのは、「ああ、この人は本当に、こうとしか生きられないし、こうなるようにしか生きられなかったんだな」ということでした。
平安神宮という場所で、流動的な、固定しきることは出来ないメンバーさんの中で、自分の名前で、声を上げ、自分の音楽を鳴らし、歌う。
こういう場所に辿り着いたのは、剛さんがこういう風にしか生きられない生き物だからなんだな、という気持ちになって。

恐らく、選べる道は沢山あって、一般受けする道だって沢山用意はされていて、それでも、剛さんは、例え全ての人には理解されなくても、受け入れられなくても、どうしても今の道しか選べなかった人なんだろうな、と、不意にこう、腑に落ちたというか。
剛さんの性質としては、自分で選ぶという面も勿論あったんでしょうけど、半分は不可抗力というか、剛さんはそうとしか生きられない人なんじゃないか、みたいな、そういう哀しさがあって。

凄い人だな、と改めて思いましたし、ステージの上だからこそこんな風に感じさせられるんだろうと思うと、「ああ、やはりこの人もステージの人、舞台の人なんだな」と思いました。

そんな、哀しいくらいの気持ちになっていたところで、剛さんが「どうしたんだい、時代よ」とか歌いだすから、自分の中では、変に辻褄があっちゃって、それもあって、印象深いです。
独りぼっちに見える人が、時代という大きなくくりに、どうしたんだ、と問いかける、という構図が、あまりにも切なくて。

そりゃあ、剛さんみたいな美しさを持つ人が、時代という大きな他者の集まりと理解し合えるはずがない、寄り添えるはずがない、みたいな。剛さんが時代に対して問いかける、というのが、実際にああやって聴くと、凄く腑に落ちて、生で見聴きするってこういうことなんだな、と感じました。

それから、歌詞の流れがまた、剛さんらしくて。
多分、二度ほど(間違っている可能性も高いです、すみません!)「(逃げるなら、とか、この今も、とかの後だったと思うんですけど)いらない」って歌ってらしてたのが、剛さんだ、と思ってハッとしました。
剛さんには、こういう極端な潔癖さがあって、それが凄く好きです。
0か100か。

「残念な友人を僕は捨てた」とかにも感じるんですけど、潔癖さ故の切り捨てが、あまりにも自然に「アリ」なことなんですよね、剛さんの中では。
剛さんは、「いらない」と言える人で、曖昧な妥協を許さない。
例え「友人」であったとしても。

何かを「いらない」と言うのって、実は結構、難しいというか、切り捨てることが出来ない人って沢山いると思うんですけど、剛さんにその気配を感じたことが無いんですよね。
剛さんは、剛さんの信義に反するものは、「いらない」と言えるし、実際に切り捨てられるし、それを振り返って後悔することも無さそうだというイメージがあります。
それは、剛さんの中の信義、あるいは正義、道徳、といったものが強固だからなんだろうと思うんですけど。
だからこそ、そこから外れたものは、切り捨てても惜しくはないし、いらない。

そんな剛さんだからこそ好きだ、と思います。
剛さんがただ甘いだけ、優しいだけ、愛に溢れるだけの人で、なんでもズルズルと許してしまうような人だったら、ここまで強烈な魅力を感じはしないなあ、って。

とか言って、聴き間違いだったら申し訳なさすぎるんですけど(笑)

それにしても、私、「音楽を終わらせよう」って、自分の中での立ち位置というか、扱いをいまいち定められていなかったんですけど、生で聴くと凄く剛さんらしくて、あの歌声で歌われるとより価値があって、やはり剛さんはこうして歌うべき人なんだな、と思いました。
訴えるのに向いた声であり、感情を乗せるのに向いた声。
そして、その声に見合うだけの、大きくて強い想いを持つことが出来る精神がある。
この歌が、野外で夜空に響いていくその空間自体が、意味のあるものになっているような気持ちになりました。
私たちは皆、今、この時代に生きているんだな、と改めて思わされるような。

「これだけの日を跨いできたのだから」
私、この曲をこんな風に聴いたのが初めてだった、思うんですよね、多分。
少なくとも、噛みしめるように、言い聞かせるように歌う剛さんを、噛みしめるように眺めて、聴いたのは初めてだったような気がします。凄く良かったです。
剛さん御自身が、悲惨な出来事なんてあるのが当たり前なのかな?と歌いながら改めて、今の心底からの問いとして問いかけ、それでも一歩一歩と私「達」は歩んでいるんだ、と自分に対しても言い聞かせているようで。

「嘘は見破ってドブへ」の、切るような強さ。
まだ確か当時20代半ば過ぎくらいだったのかな、の剛さんが、「これだけの」という言葉を使った、というのがまた。
そう言いたくなるくらいの月日だったんだな、とふと感じました。

私は個人的には、この曲にはそこまで強い思い入れは無いんですけど、剛さんが歌い続けることを選ぶ曲がこの曲であることが、剛さんの根の正しさというか、健やかさの現れなんじゃないのかな、と思います。
一歩一歩を歩んでいる、人生という道を歩んでいる、ということを言葉に、歌にする。
最後の最後で輝きを、希望を歌う。

剛さんのこういうところにこそ、多分、ちょっと救われるんですよねー。
この前も書きましたが、剛さんの口から「世の中、所詮、そんなものだから仕方ない」とか、「愛情なんて、結局は綺麗事だから、強い負の感情には負けるよね」とか、「もう愛を投げることが虚しくて疲れた」とか言われたら、結構ダメージが大きいな、って思うんですよね(笑)

自分自身は結構、そう思ってるところがあるし、上に書いたようなことをおっしゃらない剛さんが危うく、というか、うーん、変な言い方をしたら「大丈夫か」と思いすらするのに、それでも、剛さんには潔癖で、綺麗なままでいてほしい、とどこかで思ってる。

三十代半ばを過ぎて、しかも、アイドルという職を続けている剛さんがあのままでいてくださること自体が、凄い奇跡だと思うんですけど、どうか今後もそのままでいてほしい、と、剛さんや、神様みたいなものに祈りたくなる。
剛さんの美しさは、そういう美しさでもあるな、と思います。

そうそう、話は変わるんですけど、剛さんの楽器の音が今回、凄くグッときたんですよね。
ギターにしろ、鍵盤にしろ、凄く好きだな!!ってストンと思って。
楽器の音で伝える、っていうのが、以前よりはクリアに納得できたというか、ああ、確かに伝わるものがあるな、って思えて。個性の出方に、ということなのかもしれないんですけど。

それから、楽器の話から言うと、最後のセッションも相変わらず、これ、求められるハードルが物凄く高いんだろうなあ、と思いつつ、上質の音楽を聴くのが久しぶりだったこともあって、とっても楽しかったです。
ああやって聴かせてもらう音楽は、本当に贅沢で良い。

そうそう、セッションの最後には、ギターを弾いている剛さんだけが、あれ何メートルくらいだったのかな、かなり高いところまで上がる台に乗って登る、という演出(?)があったんですけど、何故あのタイミングだったのかも、何故剛さんだけが登る演出だったのかも、意図が全く分からなくて、流石剛さん、油断してるとこういうことがあるから面白いよなあ、って感じました(笑)

上にいる時間もそんなに長くはなかったんですよね。
後ろからも見えるように、とかっていうことなのかもしれないんですけど、それなら歌の時なのでは、みたいな気もするし。
単純に絵的に良いから、ということだったのか、音的な効果があるのか。

絵的には、剛さんに皆さんがそれぞれ、まさに音を捧げるじゃないんですけど、剛さんだけのための音、みたいなニュアンスを勝手に感じてしまうような感じになっていて、改めて、剛さんは独特な人だよなあ、と感じました。

結局のところ、たった一人で登っちゃう剛さんを見ると、セッションの時にも感じる、あくまで、剛さん対皆さん、という立場の違いをしみじみと感じて、難儀な人だな、と思いました。

結局、独りになってしまうようで。

勿論、皆さん、終焉後の御紹介タイムの短い時間の振る舞いだけでも、良い方々なんだなあ、って伝わってくるくらい素敵な方々で、剛さんも皆さんのことが大好きなんでしょうけど、それとこれとはまた別の次元のことなんだろうなあ、と、ふと思わされる。

そういう意味では、剛さんは、家族やら何やら、そういう存在に関しても、それとこれとはまた別、という領域で、結局のところ一人、というイメージがあるんですよねー。

なんだろうなあ、愛されることと一人であること、あるいは、愛することと一人であることは、また別の話なんでしょうね、きっと。多分、剛さんに限らず。

剛さんの歌詞に「孤独」がよく練り込まれることに、剛さんを生で見ると、深く納得します。
剛さんには、こういった種類の孤独に対する感性、あるいは自覚が強くあるんだろうなあ、って。

そして、改めて、光一さんという、剛さんを一人にしない存在があることの不思議さを思いました。
こんなに本質的に一人な人なのに、光一さんといる時には、それを感じることが無いんですよねー。
同じ一つのグループを二人で背負うという意味では一心同体だし、一つの単位だからなんですかね。

MCも、相変わらず、可愛らしさもあり、真面目さや誠実さも伝わってきて、剛さんだなあ、と感じました。
話の流れで、「僕はそう信じているので」っておっしゃっていたんですけど、「僕は」っていうのが、なんだろうな、そうは信じない人がいるのも分かっているし、それを否定する気も無いんだけど、「自分は」そう信じているから、っていうニュアンスが強く含まれているように聴こえて、剛さんの柔らかさはこういうところだし、広い意味では、キンキさんが上手くいくのはこういう部分がお互いにあるからなんだろうな、と感じました。

それから、剛さんは、永遠とか、一生とか、そういう物を信じられる程、ロマンチストではないような気がするんですけど、MCでも、「皆さんが許してくれる間は皆さんの人生に寄り添いたい」とか、「僕の人生に寄り添える間は寄り添ってもらえたら」みたいな言い方をされていて、人の心が変わってしまうことだとか、ずっと続くものが少ないことだとか、そういうことを実感として知ることが沢山あった方なんだな、と改めて感じました。
今の先輩方の状況も思うと、余計、言葉も重くて。何が起こるか分からないもんな、って。

今までの剛さんの活動の経緯からしても、ファンにしろ何にしろ色々な反応があっただろうから、ああいう言葉が出てくるんでしょうけど、それでも、そういう言い方をされるのがまた、切なくもあって。

そういう、ある意味、あてにならないような曖昧なものばかりを相手にして、仕事をしたり、表現をしたりするのって、怖いだろうし、辛いことも沢山あるだろうに、剛さんがあのままでいてくださることだとか、独特の美しさを失わないでいてくださるところだとかに対して、改めて、凄い人だな、と思います。
そして、素朴に、単純に、ああ、自分はこの人やこの人の音楽が好きだな、と改めて心から感じました。

ステージにしろ、音楽にしろ、世界観にしろ、剛さんの歌声にしろ、心から満足したというか、まさに満ち足りた日でした。

そして、こんな人はこの人ただ一人しかいないからこそ、こうしてファンをやる価値もあるんだな、と思います。
どこにでもいるのなら、わざわざ仕事やら何やらの都合をつけて京都まで来ないよなあ、と思うと、そういう存在に出会えた幸せを改めて噛みしめたりもして。

本当に、自家中毒を起こしかけていた自分が、自分の中に溢れる気持ちでストンと浄化されて、まさに生まれ変わったような、そんな気持ちになりました。

ごちゃごちゃこれまでの事を考えるよりも、ただ、好きだと思える人の好きだと思える音楽に身を浸して、感情の乗った美しい歌声が、問いかけが空に投げられるのを見聞きすることこそが、自分の気持ちの解決に繋がることもあるんだな、って実感して。

本当に、良い公演でした。剛さんも皆さんも、お疲れ様でした。
願わくば、どうか、永遠とはいわずとも、なるべく長く、平安神宮公演が続いていきますように。
どうなろうと、剛さんの音は、あるいは歌声や歌声に宿る魂は、あの空間のどこかに、永遠に残るような気もするんですけど。

そして、もう一つ、願わくば、剛さんが仕事を通して、あるいは表現することを通して、幸せを感じる瞬間が、少しでも多くありますように。

ということで、いつも以上に支離滅裂で、思い込みと独断と偏見に満ち満ちた感想になってしまいましたが、もう自分の為の覚書ということで、上げてしまおうと思います!
読んでくださった方がいらしたら、ありがとうございました!