少しずつ

1週間が早いなあ、と最近はよく思います。

働き出したら早く感じるようになるよ、とはよく言われていたのですが、こういうことなんですかね。

仕事も少しずつ覚えてきてはいるんですけど、やっぱりまだまだ作業に時間がかかりすぎているので、明日からまた頑張りたいと思います。

あと数日でGWに入るので、基本的にはGWは勉強をしつつ、今までの仕事をまとめ、そしてキンキさんの番組も見たいです。出来れば、熊本にも行って。

キンキさんと言えば、やはり毎日聴いているんですけど、単純に、歌声が好きだなあ、と改めて思います。

私はJアルバム付近からキンキさんに入っているので、やはりJアルバムを聴くことが多いんですよね。
作品としても、凄く好きで。
歌声も、不意に凄く柔らかくて美しい時があって、ハッとします。
Jアルバムを基点に、アルバムごとに遡っても楽しいし、逆にK以降に辿っていっても楽しいです。

何より、歌声の変化が鮮やかで。
歌唱力自体も勿論、どんどん良くなっていってらっしゃいますが、単純に、声自体がどの年代も、その年代ならではの美しい色があって、少年から青年へ変化していく様が作品に閉じ込められていて、きっとこれがアイドルさんの醍醐味なんだろうな、と感じます。

その一瞬、その一瞬にしかない輝きは必ずあって、それがこうして封じ込められている、ずっとここまで続いてきている。
凄い事だな、と思います。

それと引き換えにお二人が犠牲にしたものや捧げてきたものも大きかったんだろうし、それがお二人にとって幸せだったのかどうかは分からないですけど。

お若い頃のお二人の歌声を聴いていると、つくづく、若い頃から異性に消費され続ける、というのはどういう感覚なんだろうなあ、と思います。
アイドルさんは男女共に、歌唱力や身体能力だけでなく、自分自身の容姿、あるいは考え方、スタンスも含めてが商品、と言うか、自分自身で勝負していかないといけないところが大きいんだなあ、ってよく思うんですよね。

能力だけ、というわけでなく、能力+αで求められることが多い、というか。
アーティストさんと違って、作品さえ良ければ人柄はどうでも、という雰囲気が薄い気がして。
だからこそ、大変なことが沢山あるんだろうな、と思います。

でも、キンキさんは結局、消費されきらない強さがおありなんだろうな、とも感じます。
光一さんは「自分の全てを晒しはしない」という意識をお持ちになることで消費されきってしまうことを防ぎ、剛さんは「自分自身を、消費するだけの対象にはさせない」という方向に持っていこうとされてきた、ように見えます。
お二人それぞれが、それぞれに合った方法をとる賢さがおありで、かつ、お二人に共通して、それを貫くだけの負けん気の強さが、根っこにはおありであるような気がします。
気位の高さと言っても良いのかな。

そうそう、キンキさんは、ちゃんと負けん気を持ってるお二人だからこそ、あんなに面白い関係性なんだろうなあ、って思うんですよねー。
どちらかが負けん気を持てないタイプだったり、意志が弱いタイプだったら、もっとのっぺりした、面白みの無い関係性になっていたような気がします。なんとなく。

ということで、いつものように話が大きく脱線しましたが、最近、Cアルバムを聴いていて、歌声の違いにしみじみと驚いています、ということを書きたかったんでした(笑)

もう本当に、少年、という声ですよねー、お二人とも。
そして、今の若いジャニーズさん達の声とはまた違うような気がします。
なんだろうなあ、やっぱり今の方々はある種、老成している部分があるんですかねー。
歌の上手さ、とかではなく、声自体の完成度が違うような気がして、驚きます。

特に剛さんは、今の歌声を知っているからなんでしょうけど、明らかに声自体が未完成、という色が濃いようで。
歌自体はお上手だからこそ余計、声から伝わってくる未完成さがアンバランスで、それがまた、この時期特有の魅力になっていて凄いな、と感じます。

こういうアンバランスさこそが、若い頃から作品を残させることの醍醐味の一つなんだろうな、アイドルさんってそういうことも売りの一つなんだろうな、とも思うし。

そして、キンキさんがアイドルとして、お若い頃から沢山の作品を残してこられていることのありがたさを感じます。
ファンになってから遡る楽しさって、こういうことなんだなあ、って思って。
何より、その年代だからこそ歌える、あるいは、独特の切なさが出る曲って沢山ありますもんね。

私の中では、その最たる曲が「ボクの背中には羽根がある」なんですよねー。
今のお二人が歌うのもとっても好きなんですけど、あくまで、あの年代で出していないといけなかった、それが前提の曲だよな、って感じます。
そういう曲をその時期その時期にきちんと出してきたキンキさん、出させてきたスタッフさん、曲を作られた方々は凄い。

ということで、明日からもキンキさんの歌声に励まされて頑張りたいと思います。
こういう時期は剛さんの曲は、心に響きすぎて、頭の中で再生するだけでグッとくるので(笑)、「音源まで聴いてしまったら泣いてしまう!」みたいな、謎の心境に陥るんですよねー。

なので、朝は避けて、帰宅途中にそっと聴くことになります。
こういう感覚になると、改めて、自分にとっての剛さんの曲は、特別な位置にあるんだなあ、って感じます。
なんだか、伝わってきかたが生々しいように感じるんですよねー、剛さんの曲や歌声は。
だからこそ魅力的で、だからこそ聴くのが辛い時もあって。
そして、その辛さまでもが、言葉を選ばずに言えば、愛しいような気持ちになる。
不思議だなあ、と思います。

そうそう、今日はよさこいを見て、落語を初めて生で聴いてきました。

よさこいはやっぱり、衣装を見るだけでも楽しいです。
皆さんそれぞれの拘りが伝わってくるし、華やかだし、個性的だし。
よさこいは、踊り自体も、とっても自由と言うか、受け入れる幅が広いんですよね。
なんでも取り入れられる。だから、個性が凄く出る。
何より、踊ってる方々御自身が、心から楽しんでらっしゃるんですよね。
私は個人的には、特にプロでない方々だと、楽しませよう、とされる方々よりも、御自分が物凄く楽しんでらっしゃるんだな、という踊り方をする方々のほうが好きなんですよね。
そういう方々が、一番、見ていて楽しい。
最近は、そういう笑顔を見ると、思わず、ちょっと涙ぐんでしまいもするんですけど(笑)

よさこいは、身体全体を使う振りや、気持ちを込めやすい振りが多いから、踊っていて凄く楽しいだろうなあ、って思います。今日行ったお祭りでは、まさに老若男女、沢山の人が、心から楽しい、という笑顔で踊ってらして、凄く良かったです。

それから、落語。「井戸の茶碗」という有名なものだったので、知っている噺だったのですが、生で見たのは初めてでした。とっても良かったです!
終わり方の綺麗なおさまりかた、ちりばめられた笑い、何より、落語家さんの御上手さ。
引き込まれましたし、なるほど、落語っていうのは凄い文化だなあ、って感じました。

身一つとちょっとした小道具くらいで、しかも正座で座ったままなのに、あんなにも豊かで楽しい芸が出来るなんて、こりゃあ凄い、と心から思って。
お話しって、あんなに楽しくなるんだなあ、って素朴に驚きました(笑)

好きな本のシリーズでは、落語家さんが探偵役で、いつか落語を生で聴きたいなと思っていたので、今日は念願が叶って、しかも楽しくて、とっても嬉しかったです。

私は、執念深く、忘れずにタイミングと機会を待ち、いつの話をしてるんだ、っていうくらい時間が経ってから希望を叶える、ということを結構やっている気がします(笑)

今も、なんとか時間が出来るのを待って、キンキさんの台湾公演のDVDを見てみたい、気になっている本を読みたい、自家製のジンジャーエールを作りたい、とか、色々と思っているので、なるべく早く叶えられるように、少しずつ頑張りたいと思います。

以下は、ボランティアについて、自分が思ってきたことをつらつらと書いているだけで、人によって様々な感覚があることだと思いもするので、さげます!



九州で大きな地震があってから、1週間以上が経ちました。
ここ数日、今だけの注目、今だけの行動にはしないよう気を付けよう、と何度も思います。

というのも、「九州で大きな地震があったからと言って、自分は岩手の事、東北の事を決して、気持ちの中で薄れさせない、それだけはしたくない」と思うんですよね。

勿論、九州は近いですし、今この時、目に見える、分かりやすい形の支援を必要とされている方が大勢いらっしゃるのは間違いないと思います。

実際、状況を見てですが、自分もGWには行けるように保険等の準備を進めているんですけど、だからこそ、今、東北で会った方々を強く思います。

どこで大きな災害があったって、上書きをしてしまって、それよりも前にあったことを薄れさせるようなことだけは絶対にしたくない、と思います。

せめて、自分が行ったところに関してだけでも。

岩手に行って、今はもうボランティアがほとんど来ない、という話を聞いたとき、そうだろうな、と納得したと同時に、寂しく、悲しい気持ちになったんですよね。

人は忘れる生き物ですし、仕方がないことだと分かっているのですが、震災当時、あれだけ「絆」だなんだと言っておきながら、3年もしないうちにこうなるんだ、という気持ちになりました。

あの時は丁度、東京オリンピックが決まるか決まらないか、という頃で、忘れられてしまう、とおっしゃってる方々も沢山いらしたんですよね。

自分はそうはなりたくない、とあんなに強く思ったのは初めてでした。
勿論、自分自身も、東北以外の場所でこれまでにあった震災について、覚えていないこと、忘れてしまっていること、気が付かなかったことが山のようにあるはずなんですよね。
東北のことだって、勿論、ほんのほんの少ししか分かっていない。

だからこそ、自分の目で見て、耳で聞いた土地のことだけでも、と思います。
ずっと、せめて気持ちだけでも持っていたい。

岩手で沢山の方とお会いしたことは、意外なほどに薄れていかないのですが、泣き笑いでお話ししながら仮設のお部屋を見せてくださった女性のお顔と声が、特に離れないんですよね。また来てね、あと3年はここにいるだろうから、とおっしゃっていた方でした。
明るいのに、辛さや寂しさが滲んでいて。
どうか、ああいうところに、ずっと点が続いてほしい、と思います。

といっても、私自身、あれ以来、実際に行くことは出来ていなくて、色紙の活動に参加するとか、あちらから送られてきた物を買うとか、信頼できそうなところに募金をするだとか、自分が参加した団体を応援するとか、そういう間接的なことしか出来ていないんですけど。

でも、学生主体の、割と大きな団体さんにメルマガ登録をしているんですけど、そこは今もきちんと活動をしてくれているんですよね。代変わりをしながら。
今もそうして関わる学生さん達がいる、ということに、安心するような気持ちになるときがあります。
これからも、小さな点がずっと続いて、例え細くても、線がなるべく長く続きますように。

学生ボランティアは、今回の地震でもそうですけど、係員か何かと勘違いされて、被災地の方に怒鳴られたり、思いもよらぬ接し方をされてショックを受ける子もいるんですよね。
出来たら、そういうことが少なければ良い、と願っています。

ある程度の年になると、「皆さん、疲れ切っていて、苛立ちもあるだろう、そういうところに行くんだ」という意識を持って行くことが出来ますが、純粋に、役に立とうという気持ちで行く子には、そういう予期せぬ思いは、なるべくしてほしくないな、という気持ちになります。特に、高校生くらいの子達には。

難しいんですけどね、ボランティアをどう考えるかとか、どういう気持ちが正しいのか、自己満足とは、役に立つとは、というのは。
自分に関しても、ボランティア活動に参加する際はやはり考えます。

自分自身は、ボランティアというのは結局、好きでやっているのだから、これは自分の勝手なんだ、自分自身の気持ちのためなんだ、と思うようにしています。

誰かのためになりたいとか、役に立ちたいとかじゃなくて。

自分がしたいと思うことが、たまたま、どこかの、あるいはどなたかの需要に一致していたら喜ばしいな、せめて迷惑でなければ良いな、というくらいの気持ちで。

よく考えたら私は、小さい頃からガールスカウトだとか、福祉系の団体の、障害について知ろう、車椅子を扱えるようになろう、だとかのプログラムに参加したがる子供で、もともと、そういう性分なんだろうと思うんですよね。多分。
本を読みたい、音楽を聴きたい、と同じラインにこういうジャンルのことがあるだけの事で。だから、本当に、自分のためなんだ、という意識を持つようにしています。
自分に関しては、ただの自分の性分で、理想とか、善意とか、人助けとか、そういう話ではないんだ、って。

そうそう、募金に関しては、今回もそうなんですけど、街頭や駅で沢山の活動が行われていますが、やはり慎重になります。
本当に信頼できるところなのか、という気持ちがあって。
こういう時は、結局、自治体だとか、ある程度は信頼度が高そうなところを選びたい、と思ってしまいます。
本当は、きちんと信頼できるところばかりだったら良いんでしょうけど、そうではないのが辛いですよね。仕方ないんでしょうけど。

ということで、思っていたよりだいぶ長く、つらつらとボランティアについて書いてしまいました。なんだかんだとちょこちょこ参加してきて、今度また行こうとしているから、改めて考えたくなったのかな。

ボランティアは本当に、難しくもあるんですよね。
ボランティアについて書くことさえも難しい。
簡単に使ってはいけないだろう、という気持ちになる言葉ばかりで。
それでも、自分の気持ちを整理したくて書いちゃうんですけど。

考え方、捉え方、思いあがらないこと、過剰にならないこと。それぞれの人に、それぞれの感覚があるんだと思うんですけど、私自身は、ある意味、冷静に参加したい、という気持ちが強いんだな、って、書いていて思いました。

行く前も、行った後も、複雑な気持ちにはなるんですよね。
自分自身にとっては、行って良かった、と毎回思いはするんですけど。
とにかく、需要が第一で、押しつけや負担にならないことが何より大事なんだろうと思います。多分。

とりあえず、GWに向けて、もう少し調べたり、勉強会に行ったりして、色々と見極められたら良いなと思います。