童神

お陰様で仮免にとりあえず合格し、免許合宿も折り返しを過ぎました。
やっぱりそれなりに疲れてきましたが、私、そこそこ運転するのが好きなタイプみたいで、教習に関しては、疲れ以外、そんなに苦が無いです。今のところ。
勿論、何かあったら、と思うと怖いは怖いのですが、教習所の中よりは外のほうがずっと、運転していて楽しさもありますね。
もっともっと安全運転が出来るようになるよう、頑張ります。

ただ、今回、ホテルに一緒に泊まっている人が、私以外、皆さん、男の人で。どうしても、囲まれての食事になってしまうので、食事の時とかはかなり気まずいです(笑)
だからといって、話して仲良くなるのも、うーん、という感じで。たまに話すこともあるんですけどねー。色々な人がいて、話してみると面白いは面白いんですけど。
そうそう、男性陣の仲良くなり方、ほぼ初対面の人との話題の選び方は、なんとなく聞いてる身からすると、意外と可愛くて微笑ましいです(笑)
男の子って、基本的には、とても可愛らしいよなあ、って思います。微笑ましい。

今日は、ずっと書きたいなと思っていた古謝美佐子さんの「童神(わらびがみ)」という曲の事を書きたいと思います。沖縄から帰ってきてしばらく経った今、やっぱりあちらの曲を凄く懐かしく感じるので。Coccoさんとかも、改めて、沖縄の女だな、って思います。帰ってきてから聴くと。

沖縄の方言をあちらではウチナーグチ、と言うんですね。
私は、沖縄に住んでいないこともあって、ところどころ聞き取れて意味が分かる、という程度なんですが、母の代になると、話すことは偶に難しくても、聞き取ることは普通に出来る、という感じみたいです。母も若い頃に沖縄を離れた人なので、ずっと住んでる方とはまた違うかもしれないんですけど。

童神は、ウチナーグチで歌われている、子守唄のような歌です。
古謝さんの歌声、曲調、歌詞、どれも凄く好きです。母に聞くと、この動画の訳詩とはまたちょっと違うニュアンスで訳してくれるので、それも面白いなと思います。

夏川りみさんとか、他の方が標準語で歌ってらっしゃってもいるんですが、やっぱりこの歌は方言のほうが伝わるものが多い気がします。

安心感、ってこういうことなのかな、ってこの歌を聴くと思います(笑)
それくらい、なんですかね、純粋に子を思っていながら、ある程度、大らかに、自由にさせながら見守っていこうというような、そういう感情が伝わってくるようで、良いな、って思います。

雁字搦めの息苦しさもなく、突き放されるような不安感もなく、ひたすら情が深く、理想的な保護者の愛情、という感じがします、個人的には。
疲れたときなんかに聞きたくなりますし、泣くなよや(泣くんじゃないよ)と語りかける歌詞にもグッと来ます。ただひたすら、その子なりの健やかさで、とにかく無事に育ってくれることを祈る、という歌詞全体が、想うということの根っこの感情、という感じがして。
また、古謝さんの歌のときの仕草がまた良いんですよね。ゆったりとしていて、情の深さが感じられて。

そして、夏川さんだと、涙そうそうも方言のほうが好きです。
やっぱり、方言の音には馴染みがあるからですかね。これくらいなら意味もほとんど分かるし、こちらのほうがグッと来るんですよねー。

ここからは少し話が変わるのですが、ここ最近、改めて、私はきっと、自分のもともとの性格とか、そういったものが全然、分かっていないんだろうなあ、って思います。

今回も教習所に来た初日に、適性検査ですかね、あれを受けたんですけど、確かにそうかもなあ、ってことがいくつか書いてありました。
色々な印象を与えることが多いようですが、とか。そうなんですよねー、私、色々な面がありすぎて、自分でもいまいち、自分の素が分からないんですよね。きっと、そういう方って多いんじゃないのかなー、と思うんですけど、自分の場合は、それが割と激しいような気がします。

気が強い、弱い、気性が激しい、おとなしい、活動的、そうでもない、神経質、大雑把、自信がある、自信が無い、とかっていう面が、どれも色濃くある。
だから混乱するんですよね、きっと。
私はこうだから、こういうのは苦手、とかっていうのが分からないから、苦手なことを避けることも難しい。
どう振る舞うことも、とりあえず、出来はするというか、これだけはどうしても無理(大勢の前で話すのは、とか、ずっと黙っているのは、とかの、ある程度分かりやすいやつ)ということもほとんど無いから、何が自分にとっての「無理をしている」状態なのかも分からない。

場面場面によって、自分をガラッと変えてしまうことが多いです。
でもやっぱり、本来は、沢山喋るのは苦手なのかもしれないです。
沢山話す機会があると、後で必ず、猛烈に後悔しているような気がします。聞き役のほうが絶対楽ですよね、会話って。
発言量が減れば、失敗する機会も少なくなるんだし。
聞き役になれるほうが良い云々、ということをよく聞きますが、いまいち、どういうことか分からないところがあります。話すほうが、聞くよりもずっと大変で、リスクも大きいイメージがあって。

本当に必要最低限に近いことしか話さないようにして、大人しく見られる方が絶対楽だよな、って思いはします。
でも、そうやって見てもらって、楽をするのも、それはそれで申し訳なくなってくるというか、居心地が悪くなってくるというか。
どっちかに割り切ったほうが楽なんでしょうけどねー。
自分からはあんまり話さないようにする、とか、逆に、沢山話せる人、みたいな感じにするか。
いや、それも面倒だろうなあ。人と話すのが大好き、というタイプでは、基本的に無いんだろうと思います。多分。
知らない人とでも話せるし、親しくなった人と話すのはそんなに苦ではないんですけど、基本は多分、人と話さなくても良いタイプなような。
どうなのかなー。

人に対してつっけんどんにしたりとか、あたたかく接しないとか、そういうのはかなり努力しないと出来ないかもしれません。
どんな相手でも、咄嗟に笑顔をつくって、丁寧に答えないと、という反応をしてしまうというか。
そこら辺が、気を遣いすぎだと言われるところなのかなー。どうなんだろう。
でも、そこで素っ気なく接する、とかってことはどうしても出来無さそうだしなあ。

私は、十代ではあまり人と接しなかったからか、あんまり自分を作り上げられていなくて、やっと最近、人付き合いのサンプル的なことが増えて、自分のことを少しずつ考えられるようになってきたような気がします。少しずつ、自分がどうしたら楽になるのか、どういうスタンスのほうが他人にも自分にも負担が無いのか、考えていってみたいです。