ながらへば

今日は来年度の講義の選択作業などをしていたのですが、急に凄く不安になってしまって参りました。

やっぱり怖いんですよね。そこから始めないといけないな、って今日は思いました。とりあえず、怖い。
私、小学校から予備校に至るまで、一度駄目になったところにもう一度行く、ということをしたことが無いんだった、って今日、気が付きました。

基本的に、次こそは、っていう並々ならぬ思いで新しい環境で頑張るので、駄目になったときの辛さと落ち込み方と何もかもが信じられなくなる感覚もきつくて、「新しくまた頑張ろう、次は出来るかもしれないし」って自分に言い聞かせて次に行くために頑張れるようになるまでは、平均して2年くらいはかかっていました。

なので、自動的に、次の環境に行くしかない状況になっていたんですよね。中学校は一年の六月までと三年の一年間行ったので、もう一度通ったといえばそうなんですけど、駄目になったときの苦しさを何となく忘れたような気持ちになれるくらいは、時間をおいた形になりました。

それが、今回は駄目になってからたった二ヶ月しか経ってなくて、しかも、全く環境が変わらないところに戻ろうとしてるんですよね。苦しくてどうしようもない悲しさもきっちり残っているどころじゃないくらい、まだあって、しかも、自分自身も何も変わっていないし、どうすれば行けるのかもまだ全然、分かっていないのに。

それが、凄く怖いんだろうと思います。本当に、毎回毎回思うんですけど、もう二度と、あんな思いはしたくないです。何で出来なくなるのかも分からないまま、急に、自分がコツコツ頑張っていたところから引き離されるような、そういう思いはもう本当に、本当に苦しいです。

何度やっても、というか、年を重ねるほど、もっと年を重ねれば安定するかも、という希望がなくなってきて、より苦しくなります。先もだんだんと無くなってくるし。

勉強もなあ。正直、一年の時が一番楽しいものなのかな、という気もします。一応、後期は受けてないので二年前期までではありますが、凄く良い評価もいただけたので、合わないわけではないと思うんですけど、以前より興味を持てなくなってしまっている気がします。教育というものにやっぱり向いていないのか、それとも、疲れすぎていて興味を持てなくなっていたのか分からないですけど。

違うかな、知りたいと思っていたところまで、少なくとも学部の勉強ではたどり着け無さそうだと思ってしまっているからかもしれません。じゃあ、もっと自分で勉強すれば良いのかな。ゼミもあるし。どうだろう。
私は「罪って何だ」っていうことを考えたいんですよね、やっぱり。自分がずっと罪悪感を持って過ごしてきたのもあるし、ずっと昔にされたことが罪ではない、ということに未だに納得がいっていない。だからこそ、罪とは何か、自分の答えを知りたいんだと思います。どんだけ執念深いんだ、って話ですし、ここまで来るともはや学問ですらない気がしますけど。そういえば、ドストエフスキーの「罪と罰」という作品は、自分がこういう考えだから、そして、自分の読みが浅かったからでもあるんでしょうけど、最後まで読んで、放り投げてしまいたくなるくらい怒った覚えがあります。名作だっていうから期待したのに、そんな安っぽい救われ方しやがって、うだうだ言って結局、女の愛ってお前ふざけんなよ、みたいな気持ちになってしまって(笑)
この文章の背後には・・・!みたいなの抜きで、単純に読んでしまったからなんでしょうけど。

講義に関しても、多分、もっともっと面白くなっていくはず、みたいな期待がどこかにあって、しかもその期待が大きすぎたのかな、と思います。
来年度は、面白かったら儲けもの、くらいの感覚で、淡々と、単位を取るため、くらいの気持ちで講義を受けたほうが良いのかな。

そして何より、やっぱり人間関係っていうのは大きいのかなと思います。十代の頃はほとんど一人で過ごしていたので、未だに、沢山の人が狭いキャンパスにいる、ということに圧迫感を感じてしまっているんですよね。しかも、満員電車とか街にいることはそんなに気にならないということは、知り合いが居たら笑顔を作って挨拶しないと、っていうのがまず苦痛なんだろうと思います。多分。

私、別々のところで友達になったと一緒に会う、っていうのが出来ないんですよね。例えば、部活で一緒のAさんと、学部で一緒のBさんが居たとして、Aさん+Bさん+自分で会う、となったときに、少し困るんです。
私は基本的に、相手にとって都合の良さそうな振る舞いをしようとするところがあるみたいで、Aさんと居る時の自分とBさんと居る時の自分って、物の考え方から言葉の選び方に至るまで、微妙に違うんですよね。多かれ少なかれ、そういうところがある人は多いと思うんですけど、私の場合はそれが結構、細かいみたいです。目上の方、友達、年下、とかっていうざっくりした分けかたならまだ良かったんですけど、対Aさん、対Bさんの自分、みたいなものをほぼ無意識に作っているところがあって。考え方そのものを相手に合わせようとするというか。無駄に小器用なところがある、ということなんだと思うんですけど。

人が変わったようになるくらいまで極端な変わりかたをするわけじゃないんですけど、自分の感覚が微妙に違うので、一緒に会う、ということがなかなか難しいんですね。なので、ひどいこと言っちゃうと、部活関係の人とも、部活の場でしか出来たら顔を合わせたくない、みたいなところがあります。特に、上や下の方々は。構内で道場用の顔を作るのは疲れるというか。
八方美人みたいなものなんでしょうけど、自分に特に得することがない、っていう残念な感じです。嘘をついてたり、自分を偽ったりしているつもりはないんですけど、どうなんでしょう。これは、そういうことになるのかな。

やっぱり、サンプルが少ないんだと思います。十代で他人と接する中で、人と接するときの自分の考え方というか、スタンスというか、を決めることが多いんじゃないかと思うんですけど、私はその経験が少ないぶん、未だに、自分が他人と接するときにどういうふうにすれば負担が少ないのか、よく分からないんですよね。本当は朗らかでいたいのか、無口でいたいのか、優しくしたいのか、関わりたくないと思っているのか。もっというと、話したいと思っているのか、話したくないけど話さないと、と思っているのか、全然分からない。どんなのでも、やろうと思えば出来はするから、逆に途方に暮れてしまっています。特に、今みたいに、駄目になってしまった後は。

まあでも、ちょっと今更なんだよなあ。ここから急に無口なタイプになるのも、それはそれで申し訳ないと感じそうだし。
やっぱりこう、理想のタイプとか、憧れとか、要は凄く好きだと思えるタイプの人が少ない、というのはこういう時に困るな、と思います。好きだから私もああなりたい、とか思えたらなあ。いやでも、私の場合は、好き=憧れ、にはほぼならないから、意味が無いのかな。

とりあえず今は、自分が不安だ、ということにきちんと向き合って、今だけで全てが決まるわけじゃないから、って思いたいです。
「ながらへば また この頃や しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき」という百人一首のうちの一首を、今日は何となく思い出しました。
もしこの世に生きながらえていたなら、将来、このつらい今のことがまた懐かしく思い出されるであろうか。つらいと思っていたかつての日が、今は恋しく思われることだ。
っていうのが教科書的な訳なんですけど、本当に、そうであってほしい、って今は祈るような気持ちでいます。
こんな風に、不安に思っている今も、後から、懐かしく思い出せるくらいのことになりますように。
今も、以前のことを懐かしく思い出す、なんて穏やかな気持ちになることはなかなか出来ないですし、この歌の感じだと、過去よりももっとつらい思いをしているからこその心境であるような気もするんですけど。
まあでも、過ぎていく今この時のつらさは、いつか恋しいと思えるくらいの時なのかもしれない、と少し思うだけで、ちょっとは楽になるような気もするので、今だけが全てだとは思わずに、日々を過ごしていけたら良いなと思います。