距離と範囲

昨日はちょっとした用事があって外に出たのですが、改めて、距離ということを思いました。

九州に居ると、自分自身も実際に現地に行くまではそうだったな、って感じるんですけど、やっぱり、どうしても、他人事に近い感覚があるんですよね。知ってはいても。

例えば、他国での大きな災害、内紛、戦争、飢餓、そういう報道と、ほぼイコールに近いような感覚だと思います。
国が一緒じゃないか、と言っても、こちらからは何も見えない。津波の光景だって、他国の自然災害の報道の映像で似たようなものを見る。
自分の目で見ることが出来ない、という意味では似たようなものなんだろうと思います。

だから例えば、「世界中に飢えで苦しんでいる子供がいるんだ」と意識している人や、今、あの国では内紛があっていて、毎日沢山の人が苦しんで亡くなっているんだ、怖い思いをしているんだ、とか、そういうことを意識している人が、日本にどれくらいいるんだ、っていうのと、基本的には、話は変わらないんじゃないかな、と思います。

東北も外国も、見えない、分からない、苦しんでいる方々と縁が無い、お顔や声を知らない、という意味ではほぼ一緒なんですよね。愛国心が強いというか、日本は一つ!どんな地域であっても同じ国の国民だ!みたいな感覚が凄く強い人以外は。

私は、母が沖縄出身で、沖縄の人は本州にそんなに良い印象を持っていない人が実は地味に多いから、ということもあるのか、そういう感覚が結構薄いほうなんですよね。オリンピックにしても、日本人がメダルをとった、ということが何故、支え続けてきたわけでもない他人である人達にとって大きな喜びになるのか、ちょっとピンと来ないところがあります。応援はしてるんですけど、本当に、個人として応援している選手以外は、そっかあ、おめでとうございます、以外のことは特に何も感じないんですよね。

報道があれば、そうだな、本当に辛いんだろうな、何とかならないのか、と思う。そのための募金活動があれば、少しお金を出すくらいのことはする。でも、だからといって、それ以外に出来ることがあるのか、しかも、自分の生活は自分の生活としてある中で、と言われると、そこから先は時間の余裕とお金の余裕がある立場じゃないと難しい。そもそも、思い出すきっかけがほぼ無い。それも、国内だろうが国外だろうが、距離的に離れていればある種仕方のないことで、一つの現実なんじゃないかなと思います。

そして何より、実際問題、本当に関係が無い、と感じてしまえるくらい、縁が無い。もともと、東北に関する知識も多くはない。

そういう人が多いからこそ、震災が起ころうが、結局、東京オリンピックも決まったんじゃないのかな、って正直思います。それくらい、同じ国だなんだといっても、実際の距離も、心の距離もあるのが一つの現実であるような。

勿論、被災した方々が同じ日本人だからこそ、その苦しみや辛さが伝わってくる、同じ国の人が苦しんでいるからこそ、支えたい、という人は多いと思うんですけど、それでも、結局、知り合いでもない、縁が無い、というのは、大きなことなんだろうと思います。

そう感じるくらい、九州に住んでいると、あの震災のことを、というか、今までにあった震災のことを思うことが出来る機会は少ないなと実感しています。

去年までは、何故こうなるのか理解できなくて、なんでだ、って感じていたんですけど、実際に行った今は、また違う感覚があります。

行かないと分からなかった、こんなに生々しく、親身な気持ちにはなれなかっただろうな、っていう実感があるからだと思うんですけど、やっぱり、実際にあちらの方々と接する機会がないと、どうしても、ぼやけてしまっても仕方ないのかもしれない、と思うんですよね。自分の感覚が、思っていたよりも大きく変わったからこそ。

まあ、私はもともと、残念ながら感受性がそんなに強くないタイプなので、余計、そう感じるんだと思うんですけどね。映像を見るだけで泣いてしまった、という話もよく聞きますが、そういうことは私自身はありませんでしたし、物凄く大きな衝撃で、ということも、今振り返ると、無かったのかもしれない、と思います。それが、実際に行くと、それなりに覚悟していたつもりでも、二日目の夜からは、毎晩、その日にあったことを話しながら泣いてしまったり、仮設訪問後はほとんどバスの中で泣いてしまったりしたので。

「想えないのは想像力の問題だ、見えないから、というだけで他人事だなんて」と言われるとそれまでなんですけど、じゃあ今、自分が年に何度、外国で飢餓に苦しむ子達の辛さや、そこまで遠くないにしても、老老介護の辛さだとか、たった一人で育児をしないといけないお母さんの辛さだとか、自殺してしまわれた方のご家族の辛さだとか、そういう、知ってはいるけれど自分には直接は今のところ関係がない、見えない、という問題について考えているか、想いを馳せているか、って言われると、それはやっぱり、凄く少ない。終戦や停戦、あるいはその記念日なんかの区切りのとき、もしくは、報道に触れたとき、そういう時くらいしかない。

距離が離れると、それと似たようなものなのかなとも思うんですよね。関わりがあったか、あるいは、自分の問題意識が強いジャンルか、そうではないか。だからこそ、実際に行って、自分の目で見て、歩いて、お話を聴いて、手に触れて良かったな、と強く思います。少なくとも私はまだ、自分が直接関わったことのないことを、想像力を駆使して物凄く想う、ということは出来ないんだろうな、と分かったので。関わらせていただいた、なんて言えないほど、少しでしかないんですけど。でも、きっと、これからもそうだからこそ、自分が関われるとき、そして、関わりたいと思ったときは、自分で行動して関わらないといけないんだろうなと思います。

これが九州で起きた震災なら、九州の人はきっと親身に助けたり、助け合ったりしようとするでしょうし、今だって、あの震災に関連したボランティアをしてらっしゃる方も多いし、決して、冷たい人達という訳ではないんですよね。ただ、距離が離れている、っていうのは、どうしても意識しにくい。そして、それはやっぱり責められない。こういうことを考えると、国って何だろうな、同郷ってどういうことなんだろうな、と思います。これはもう、個人差が凄く大きいところだろうと思うんですけど。

とりあえず、九州では、やっぱり距離があるぶん、じゃあ、どうすれば良いのか、どう意識すれば良いのか、こちらで出来ることは何か、って考えたいなと思うんですよね。この感覚、実感を踏まえた上で。離れているところだからこそ、そんな遠いところから来てくれて、忘れないでいてくれて、って喜んでくださった方が多くて、そのお気持ちも、凄く分かるように思うんですね。確かに、遠く離れたところの人が忘れていないんですよ、って伝えることには、凄く大きな意味があるように思います。だからこそ、メッセージカードや色紙を書く、ということを続けて、それから、少しでも多くの人に、実際に行ったときのことを話して、そして、出来るだけ多くの若い人があちらに行く機会を作れるように出来たら良いなと思います。本当に、コツコツとした草の根運動なんですけど、やらないよりはやったほうが良いと思えるので。

なんだか、思っていることを上手くまとめられず、凄くグダグダした分かりにくい文章になっちゃったんですけど、とにかく、距離があるからこそ、行った身として、遠くから想い続けて、そして、このこと以外のことに関しても、想像力を働かすことが出来る範囲を広げたいなと思います。実際に行動出来ることや機会は限られているから。

昨日から新聞を読んでいると、本当に色々思い出します。あちらで食べさせていただいたものの味とか、皆さんの手の暖かさとか、声とか、やりきれなさとか、余震が来たときの緊張とか。普段は、生々しすぎて少し覚悟しないと思い出せないんですけど、ここ数日はちょっとぼんやりするくらい思い出しました。行っていた時に、あちらの先生に、帰ってから少し経ってからのほうが辛くなる人が多いから、必要な時はちゃんとケアをしてもらいなさい、って何度か言われたんですけど、最近になって、確かに、思っている以上に影響というか何というか、があるのかな、と少し感じます。たった6日、しかも、あれから2年以上経って行った21歳の人間でこうだったら、あちらの子供達は本当に、どれだけの思いをしているんだろう、って、今日はバイトだったので、余計に思います。

本当に長々と、着地点もないままに書き連ねてしまいました。が、今、思っていることを残しておきたいという気持ちが強いので、このまま上げてしまおうと思います。