涙奏

今日は、部屋の整理をしている間に読み返していた本に帝劇の名が出てきて、光一さん、今、まさに帝劇で頑張っておられるんだよなあ、って思いました。光一さんは今月一杯は帝劇ですよね、季節の変わり目で身体に負担がかかる時期なので、お気をつけて頑張っていただきたいなあ、と思います。

今日は、部活の仕事で不手際があったことのお詫びの御手紙を書いて、それから部屋の整理をしました。部活の役職の仕事をしだしてからは、慣れないことや目上の方々とやりとりさせていただくことが多い分、失敗した、と落ち込むことが多かったのですが、最近は、落ち込みながらも、その失敗からいかに行動するか、っていうことを咄嗟に考えられるようになってきた気がします。少し、打たれ強くなったというか。
本当に苦手なんですけどねー、御手紙とかメールとか。会計を希望していたのも、苦手意識が強かったからなのですが、やることになったからには、きっちり務めたいと思います。

そして、部屋の整理なのですが、ついつい、昔の日記や本を読み返してしまって、今日は思っていたよりも進まず、ちょっと反省しています(笑)
考えてみれば、基本的に、自分の部屋には好きな本や好きな音楽しかないので、整理整頓には敵が多い危険地帯でもあるんですねー。まあ、ゆっくりじっくりしたいな、と思っていたので、良いんですけど。

それから、今日は、初めて「瞬き」の涙奏を聴いて、「剛さん・・・!」っていう気持ちになりました。私は基本的に、移動中くらいしか音楽を聴かないタイプなので、部屋の整理をしているときも、黙々と無音の中でやっているのですが、ふと、剛さんの歌声を聴きたいなあ、と思って、楽しみにとっておいた曲の内の一曲であるこの曲を聴きました。
私は一つのアルバムをどれだけ時間をかけて楽しむつもりなんだ、って毎回思うんですけど、勿体無くてこうなっちゃうことが多いんですよねー。

涙奏。まさにそういう感じで、原曲も大好きですが、こちらはもう、剛さんのファンをやれて良かったな、って心から思えるくらい好きです。私が剛さんに求めているものを叶えてもらっているような、そんな気持ちになりました。多分、私が剛さんに求めてる歌声の一つって、こういう歌声なんですよね、究極的には。

前奏からして、ピアノが凄く良い。こんなにも曲の印象が変わるんだなあ、ってしみじみと驚きました。剛さんはもともと泣き声、というか、哀しみを表すのに向いてらっしゃる歌声をしてらっしゃるように思うのですが、この歌声には、剛さんにどこか残る幼さや柔らかさ、哀しみを哀しみとして悼むような情の濃さが曝け出されているようで、こちらも無防備に聴いてしまうというか、そんな感覚になりました。

剛さんは歌を歌う際に感情を込めるのがもともと、お上手な方で、そういう才能をお持ちなことが、自分が剛さんの歌声を好む理由の一つなんだろうなと思うのですが、その才能をこういう風に、ご自分で作られたこういう曲で発揮していただける、それを聴ける、って幸せだな、と思います。そして、身も蓋も無いことをいってしまうと、剛さんが歌がお上手で良かったです、本当に。お上手じゃないと成り立たない作品だなと思います。

それから、歌詞を噛みしめるように歌われる歌声を聴くと、剛さんって、こういう優しさがある方なんだな、って感じました。こう言うと語弊があるかもしれないんですけど、私は、剛さんが優しい方だ、っていう印象はそんなに無いんですよね。私の中では、優しさ、っていうのは剛さんの構成要素の中で、さほど大きな割合を占めてないというか。でも、この曲を聴いて、繊細さとほぼイコールの優しさ、繊細だからこその優しさっていうのが剛さんには確実にあるんだろうな、って感じました。人に優しい、とか、それだけじゃない、哀しむことが出来る優しさ、逆に、愛おしみたいと願うことが出来る優しさ、そういう優しさが溢れんばかりにある、そういう意味で切ない方なのかな、ってぼんやり思いました。

こういう歌い方って、ある意味、リスクが高いというか、あざとくなりすぎてもおかしくないと思うんですけど、そこでこういう結果になる辺りが、私が根本的に剛さんに対して弱いというか、この人には敵わないわー、と思わせられるところだな、って感じます。
ただひたすらに、こう歌って涙ぐんでしまう、それでも最後まで歌いきってこうやって作品として出す、その危ういくらいの真っ直ぐさに弱いんです、多分。こういう形でなら自分の感情を曝け出せてしまう、というお人柄が、剛さんの危うさであり、大きな魅力の一つだなと感じます。

まあ、台無しなことを言ってしまえば、単純に、私が剛さんに関しては、泣いてらっしゃるのに弱い、っていうのもあるんだと思うんですけどね!なんだかんだ、飄々としてらっしゃる部分を出されることが多いというか、自分を作ることが出来る方でもある分、こうやって偶に泣かれてしまうと、オロオロするような、持って行かれるような感覚があります。平安結祈とかもそうだったもんなあ。剛さんには感情を爆発させてほしい願望みたいなのがあるので、それの一環で、泣かれるのにも弱いんだろうと思います。
剛さんに関しては、力がある分、技術だなんだを気にしすぎず、自分の中に入り込んで、それだけに集中して感情を爆発させた場合、どうなるんだろう、っていうのが気になるんですね、多分。その分、奈良の公演に行けたときは嬉しかったんだと思います。

それから、この曲に関しては、東北に行ったときのことを思い出して、少しだけ泣いてしまいました。帰ってから最初に聴いた曲だからでもあると思いますし、ここ数日は特に、新聞なんかでもよく特集が組まれているからだと思うんですけど、思い出してしまって。頑張って、って泣き笑いでおっしゃってくださった方のお声とか、お顔とか、私と話しながら泣いてしまわれていた方のお顔とか、手の感触とか、凄く思いだしました。

あれから、募金活動があるときには、出来るだけ、募金だけでも行ったり、大学の展示には必ず顔を出すようにしたり、メッセージカードを書いたり、新聞やテレビ番組の特集を見たり、相変わらず、そういう小さいことしか出来ないでいるんですが、知っている、覚えている、出来ることがあるときに動けるような心積もりだけはしておこう、と意識できる、他人事だとは感じない、それだけでも、意味があったように思います。

本当に、ここ数日、思い出すんですよね。何もない草地だとか、ずっとずっと手を振ってくださったおばあちゃん達の視線だとか、あの、どうしようもないやるせなさや景色や、途方に暮れる感覚を。今のところは鮮明に思い出すことが出来て、それだけで少し安心します。繋がっていられているような気がして。思い出せるだけの余裕もある時期なので、きちんと想って、改めて、11日を迎えたいと思います。

今日、部屋の整理をしている途中で、高校一年生だった時に好きだった、女性の数学の先生の学校通信に寄せた文章が出てきたんですね。懐かしい気持ちで読んだのですが、その中に、ドイツ人牧師のディートリッヒ・ボンヘッファーという方の言葉がありました。

「僕たちは、神の前に、神と共に、神なしで生きる」

先生は、ここでいう神は宗教的なものに限らず、自分達が信じられる何かととらえて良いと思う、と書いてらっしゃっていて、私もそう思います。私たちは、何を信じていようとも、それに縋り、頼るのではなく、自立して生きていかなければならない、と先生は捉えてらっしゃるんですが、本当にその通りだな、と今、思います。

自分が東北でお世話になった先生も、あの中で試行錯誤しながら活動されている牧師さんだったので、今日は、この言葉が沁みました。私たちは、神の前で、神と共に、そして、神なしで生きていかなければならない。

厳しい中で過ごしてらっしゃる沢山の方々の為に自分にできることが、少しでも多く、増えていきますように。神なしで生きていかなければならないにしても、人はいる、というか、人しかいないんだなとあちらで感じたので、これからも、出来ることを探し続け、見つけた出来ることは、例え小さなことであっても、やり続けていきたいなと思います。