岩手

昨日、帰ってきました。
拍手をくださった皆様、気を付けて、とコメントをくださったm様、ありがとうございました!

もう、どこから書けば良いんだろう。
今、一番思うのは、行かないと何も分からない、分からなかった、ということです。
あんなに辛いところは無いです。毎晩、声を出して泣きました。これは、皆そうだったんですけど、もう、聞く話、見る笑顔、貰う言葉、全部がたまらなくて、バスの中でも、夜、集まって話すときも、泣かずに過ごせませんでした。あまりにも、って書いてる今もそうなんですけど、ちょっと思い出すだけでも勝手に涙が出てきます。

そして、今も、そしてこれからも、皆さんが苦しくて辛い中、どうしようもない状況の中で、歯を食いしばって生きてらして、もう本当に、災害後2年半経って、これなのか、と思います。いや、2年半はきちんと経っていたんですけど。あんな地震があって津波がきて、その後は火事があって、それだけでも辛い思いをして、それなのに、今もこれからも、仮設で4.5畳の、畳なんて1厚さがcmもない、ビニールの畳マットのようなもので、夏は暑くて、冬は寒い、しかも水が凍るところで、じっと耐えてくらしていかなくてはいけない。ここら辺はまた後のほうで、きちんと書こうと思います。

活動初日、まずは沿岸部が見える高台に連れていっていただいたのですが、私が行ったほうでは、もう瓦礫の処理がほとんど終わっていて、雑草が生い茂っているんですね。だから、元からこういう原っぱでした、って言われたら、普通に受け入れられるくらい、何もないです。でも、バスから見ていたら、家の土台だけ残っていて、それがもう延々と続きます。バスだから、歩くよりもずっと速いスピードのはずなのに、行っても行っても、そういう光景が続いて、最初は受け入れられませんでした。
嘘だ、っていう感想しか出てこなくて、でも、全身に鳥肌がたって、身の毛がよだつ、ってこういうことなのか、っていう感覚になりました。感情より先に身体が反応することってあるんだな、って。無くなってる、とかではなく、持っていかれてる、という感じで、土台が続くのを見ていると、これ全部が持って行かれる、って何だ、どういうことなんだ、ってもうそこで、最初は考えが止まってしまいました。
数字にすると、大まかに言って、海から内陸へ3km、それが400km、津波で持っていかれた、ということでした。
波の高さは40m以上になったところもあり、山にぶつかった波が跳ね返って上から降ってきて、それに持って行かれた、というところもありました。確かに、山には、上には葉が残っているのに、下には何もない、という木が多かったです。
その光景を急に見ると、あまりにも大きなものへの無力感と、これは助かるわけがない、という感覚とで一杯になりました。本当に、助かるわけがないし、予期できたわけがない。全然、海なんて見えない、というところも持って行かれていたんですよね。海はどちらにあるんだ、っていうのが分からないくらい、海から遠い所も、何もない。

今あるのは、頑張ってすぐに復興させた小さなショッピングモールと、役所を含めたいくつかの建物、そして、お墓だけでした。といっても、残っている家も勿論、高台にはあります。写真を見せてもらうと、私が行ったところは本当に沢山家がある住宅街だったのですが、明確に、ここまでの家は持っていかれたけど、ここからは残った、というのが見えました。生き残った方々も、自分達は生き残ってしまった、と思いながら、土台だけが残った光景を見ながら生活していくしかない、というのが分かって、胸が詰まりました。

高台から何も無くなった地域を見ていると、何だかもう、あまりに大きなものに出くわすと、自分のどこかが弛緩して、敵わない、という気持ちになるんだな、と知りました。

そして、それを見てからは、仮設住宅に訪問する、という活動になりました。もうこれが、私は一番辛かったです。草ぬきも2箇所でしたんですが、そういう労働のほうが、こんな思いはしないで済んだんじゃないか、と思ってしまうくらい。

でも、2年ほど前から、うちの大学はボランティアを派遣しているんですけど、初期のメンバー達は、電信柱が折れ曲がって、全部切れて、そこに服が沢山引っかかったりしているのを見ながら、遺骨が出てくることを覚悟して、瓦礫撤去をしていたんですよね。津波にあうと、服が脱げていってしまうから、服も散乱していたらしくて。なので、あの日、子供達は全裸で、かつ手足が無いような死体を沢山見たそうです。あの日は雪が降ってたのに、小さい子が、何とか自分の家があったところを見つけ出して、きっと、ここにいればお父さんとお母さんが帰ってくると思ったんですよね、寒かったろうに、そして、酷い臭いがしていたのに、一晩中、そこにしゃがんで待ち続けて凍死してしまったとか、そういう話ばかりでもう、たまたま、それを聞いた日は小さい子と触れ合う機会があった日だったこともあって、たまりませんでした。実際にその場にいて、見て、接してる中でのそういう話の一つ一つは、生々しく迫ってきて。
話がそれてしまいました。今日はこんなことばかりになりそうです。すみません。
そんな中で、瓦礫撤去を泣きながらしていた人達も、本当に辛かったろうと思います。
着いた瞬間、怖くなって泣き出してしまって、先生の側を離れられなくなった人もいたし、自分達が撤去しようとしているのは瓦礫じゃなくて遺品だ、って泣いた人達もいた、遺骨が出てくるのが怖い、と泣いた人もいた、と聞きます。そうやって泣きながら活動してきた人達の流れに今、いるんだな、と感じました。

そして、そのことで、先生に「点に徹しなさい」と言われたことを、この時点で少しだけ、納得出来ました。先生、というのは、うちの学校の神学部の卒業生で、本来は宮崎で牧師さんをしてらっしゃる女性です。その方が、東北に派遣されて福島、宮城、岩手でずっと活動されてて、宮崎には月に数日帰るだけ、という生活をしながら、私達の面倒も見てくださっているんですね。本当に凄い方で、初めて、心から「先生」と呼べる人に出会ったな、と思います。牧師さんと言っても、そういう活動は一切しないから、仮設のおばあちゃん達にとっては「ボランティアのおばさん」でしかない、って笑ってらっしゃいましたけど。
それでも、仮設のおばあちゃん達が「先生は牧師さんなんだからやっとけ」って言ってくれるから、クリスマスだけ聖書の話なんかをする、っておっしゃってました(笑)
私は、宗教にはあまり向いていないみたいで、特定の宗教を持っていませんが、宗教を持ってらっしゃる方々には、あの震災は正念場だったろうな、と思います。先生も、未だに、納得できないし、分かりたくもない、とおっしゃっていて。でも、今も継続的に仮設の訪問等の活動をしているところを聞くと、やっぱり宗教団体なんですよね。うちの大学も広い意味ではそうでしょうし、あと、お坊さんの団体も来る、ということで、そういう所にお金を回せて、活動し続けることが奨励されるのは、やっぱり宗教団体くらいしかないんだろうと思います。残念ですけど。
行政のほうも、重役が皆津波にのまれていて、書類もない状態から、他県の職員さん方がやってらっしゃるので、大変だということでした。
先生は、行政は理不尽を軽減するためにあってほしい、とおっしゃってて、本当にそうだな、と感じました。

仮設の話に入ります。最初に行ったのは老人ホームで、そこでは造花を石鹸に刺して芳香剤になるようなものを作りました。いきなり仮設、ではなく、最初はそういうところに連れて行くようにしてる、ということで、今考えると、ありがたかったな、と思います。
お昼は、何も話が無かったのに、ちらし寿司とお味噌汁、葡萄を施設の方々が用意してくださっていて、本当にありがたく思いながらいただきました。あちらでは、ちらし寿司に胡桃が入っていて、それにびっくりしました。意外とご飯に合っていて、凄く美味しかったです。

そして、活動初日の午後から3日間で、5箇所の仮設の訪問をしました。私が行った地域に、仮設は45箇所、そのうち、談話室が無いのは22箇所ありました。談話室も、世帯数が多い所しか作られない、という制限があって、ない所が多いので、そういう仮設では、住んでいる方々がコミュニケーションをとるのが難しいそうです。それで、先生が所属してらっしゃる団体では、夏と冬以外だけでも、集まってお茶を飲めるように、談話室が無い仮設に木製の机と椅子をおいた、ということでした。仮設は、上にも書きましたが、1人、4.5畳で、夏は暑く、冬は寒いそうです。そして、作ったところによって、構造が違い、それを、仮設の方々はご存知なんですね。「あそこは有名どころが作ってるから、ドアなんかはちゃんと作ってあるけど、台所が狭いから使い勝手が悪いって」とかっていう話を伺いました。そして、支援員さんがいらっしゃるところも数か所あったのですが、支援員さん達も被災者で、家を失ったり、身内を失ったりして、それでも支援員としておばあちゃん達を見てる、でももう本当に疲れてらっしゃる、と聞きました。
そうだろうな、と思います。終わりがない、休みようもないのが伝わってきて。

そして、今は復興住宅が出来る、という計画が立っているところもあるのですが、もう計画は出来ているところでも、入れるようになるのは5年後、それも抽選、というような所ばかりでした。そして、入居してしばらくは家賃が2500円ですむそうなんですが、それも数年で40000円に上がる、それが分かってるから、出来るだけ仮設にいて、お金をためないといけない、とおっしゃる方が多かったです。仮設では、家賃はいりませんが、光熱費は取られるので、冬でも何枚も重ね着をして、出来るだけエアコンをつけないようにする、ということでした。あんなに寒い土地柄なのに。
また、何にしろ土地が無く、復興住宅を作るにも山を崩すしかないのですが、山の土地の持ち主が、土地を売らない、という所では、計画すら立てられず、何も予定が無くて、「あと3年はここにいる」という方もいらっしゃいました。仮設から出て家を建てることが出来ない人が復興住宅に入るしかないのに、今、仮設が立っているところしか、復興住宅を建てる土地がない、というところでは、今はもうどうしようもない、という話も聞きました。

家を建てられるだけのお金が無い方は復興住宅を待つしかない、でも、それもいつになるか、まだ見えない。
何よりもまず、私が行ったところでは、盛土をするらしいんですね。土地がない、というのは、それもあります。
あそこは地盤が1.5m沈下したのですが、海抜2mまで盛土をしないと、同じようなことが起こった時に、また沢山の人が亡くなる、ということで、街全体に盛土をして土地を作ろうとしています。それしか方法が無くて。堤防は役に立たなかったから。でも、それにも山を崩すしかない。そして、あの近辺の山だけでは、土が全然足りません。
瓦礫を使えば、という案もあるそうなんですが、そこに遺骨や遺品があるのは間違いなく、それを土台にするということは、遺骨や遺品が踏み続けられるということで、それは嫌だ、という遺族の方も多い、と伺って、私も、その立場だったら、それは耐えられないように思いました。
それに、瓦礫の処分自体は、それなりに進んでいるので、やっぱり土なのか、と思いますが、本当に、果てしなく長い時間と労力がかかると思います。あの規模、全てを、「海抜」2mまで上げる、というのは。だから正直、復興は不可能で、戻りたい、という方々には本当に申し訳ないのですが、あの土地はもう捨てるしかないんじゃないか、と、部外者は思ってしまうほど、どうしようもない所でした。
土を盛っているところも見たんですけど、やっぱりあれは、本当にそれをするなら、10年ではとても無理だと思います。分かりませんけどね、そういうことに詳しいわけでもないですし、やろうと思えばできるものなのかもしれません。
でも、諸々の復興が、10年はかかる、と言われていますが、10年で出来るわけがない、どこまでどう出来るか、と感じました。あのペースでしか出来ないとなると。お金も人も足りないのは間違いないです。

でも、そんなこと、特におばあちゃん達には言えないんですよね。東北の方々は、自分達の土地や家、というものを物凄く大切にされていて、私達のような、他の土地の人間には分からないくらいの思いがある、と聞きます。「今更、他のところでは」というような消極的な感覚からなのか、と私は思っていたのですが、勿論、行くところがないこともあるんでしょうけど、何よりもやっぱり、土地への思いが強いことを感じました。

そして、他に感じたのは、仕事がない、ということです。仮設の方に、旦那さんがダンプの仕事をしている、という方もいらっしゃったのですが、今の計画だと、とにかく盛土が終わるまでは、建築業なんかはやりようがないんですよね。そして、今、店も、上に書いたショッピングモール以外は、プレハブの店が何件かあるだけです。店がないから、そこでの雇用も出来ない。若い人もお辛いと思います。働けない、お金がない、復興住宅に入れない、光熱費はとられる、だと。
その方は「貧乏は貧乏のまま」って、頑張って明るくおっしゃってくださったんですけど、泣き笑いでもう、たまりませんでした。

最初に行った仮設には、避難先の小学校で800人ぶんのご飯を作り続けてた、っていう方もいらしていたのですが、沢山、地元のお料理を作って待っていてくださいました。その日は、老人ホームで一度ご飯をいただいていたのですが、そんなことを言う訳にはいかず、美味しくいただいてきました。
沢山作ってくださっていて、どれも美味しくて、申し訳なさとありがたさがありました。スーパーに行くのも大変だから、皆さん、自分達のところにあるものを持ち寄って、頑張って作ってくださったんですよね。その後は、草ぬきをしてから、体操をしたり、歌を歌ったり、手や肩のマッサージをしたりして過ごしましたが、仮設の皆さんが、もう本当に明るく、楽しくしてくださって、お話するのにも色々と気遣って、あちらから話をふってくださって、東北の方々へのイメージが変わった最初のときになりました。
勝手なイメージで申し訳ないんですけど、東北の方はおとなしく、控えめで、もっと言ってしまうと、どこか暗くしてらっしゃる、というようなイメージがあったのですが、冗談を言ってくださったり、朗らかにしてくださったり、皆さん、本当に優しくて。
だからこそ、初日は、これで良いのか、って凄く思いました。何か出来る、と思いながら行った訳では決してありませんでしたが、こんなに、してもらうだけで良いのか、これは何になってるんだ、逆に負担をかけてしまっているだけじゃないのか、って。
そこにいた方は、身内を15人亡くした、という方や、津波の後の火事に遭われた方、皆さん、本当に辛い思いをされた被災者なんですよね。あの地域にいる方は、スーパーの店員さんだろうが、お客さんだろうが、私達のバスを運転してくださった運転手さんだろうが、皆さんそうなんですけど。
それなのに、あんな風に振る舞ってくださる。「頑張ってください、頑張っていきましょう、乗り越えてください」などの言葉は言ってはいけない、というのはこういう時も、鉄則の一つで、実際、お話をしたり、見たりすると、そんなこと、何があっても口に出来るわけがない、と感じたのですが、あちらは皆さん、「頑張ってね」って沢山言ってくださるんですね。それがもう、本当に、たまらなかったです。あそこで「頑張ってね」って言われるとは思っていなくて。初日の夜は、何しに来たんだ、何なんだこれは、っていう気持ちで一杯でした。

でも、二日目、三日目、と訪問する箇所が増えると、「ああ、意味があるんだな」と実感することが出来るようになりました。私は正直、仮設に行って、たった数時間、何かを作って、一緒に過ごすことに、一体何の意味があるんだろう、って思っていたところがあるんですね。おばあちゃん達と、って言っても、そこまでお歳をめしてない方も多かったのですが、過ごすことを「復興」のためのボランティアと言うのかどうか、分からなくて。
でも、仮設の方々は本当に、喜んでくださって。私達のような若い人間が、遠く九州から来てくれて、って、色んな所で、何度も言われました。
そして、やっぱり皆さん、寂しいんですよね。仮設の周りには何もないし、身内を亡くしてお一人になってしまって、ずっと一人でぼんやり過ごしてらっしゃる方も多くて、2週間分、今日笑った、っておっしゃるような方も多くて。
それに、皆さん、やっぱり話をしたいんですよね。マッサージをさせていただいている際に、「涙が出てきた」って言って涙を拭いながら、それでもあちらのお料理のレシピなんかを一生懸命話してくださる方や、胡桃の乾燥のさせ方を教えてくださる方、皆さん、本当に沢山お話をされてました。
三日目の夜に福島で震度5強の地震が来て、岩手も少し揺れたんですけど、その翌日に行った仮設で、地震大丈夫だった?って聞かれて、「あれ、私の寝返り!」って答えてくだる方もいらして(笑)、本当に明るく、朗らかに接してくださいながら、それでも、その方は最初からどこか泣き笑いの表情で、集まりが終わった後も、仮設のお部屋を見せてくださいながらお話してくださって、本当はもっといてほしいって本当に伝わってくるのに、それでも「ほら、バスが来たよ!時間があるからね、時間が・・・」ってこれも泣き笑いでおっしゃってくださる方とか、もう、皆さん本当に、歯を食いしばって生きてらっしゃるんだ、って強く強く伝わってきて、最後の最後まで、ずっと手を振って見送ってくださって、毎回、バスに乗って皆さんのお姿が見えなくなると、何でかも分からないまま、勝手に涙が出てきて、泣いていました。
悲しいのでも、切ないのでもない、言葉には出来ないからこそ、ああやって涙が出てきたのかもしれません。違うか、あそこに、あんな仮設に置いてくるしかない、帰るしかない、というのが辛かったんだと思います。寂しいだろう、って本当に分かったように思えたので。

それでも、そういうことを何度か繰り返すと、ああ、意味があるんだ、と感じることが出来ました。あんなに喜んでくれる、こうやって、この人達が全てを失って、こうやって暮らしてるんだ、と分かる、それだけでも大きな意味がある、って思えました。
しかも、今はもう、最初の頃ほどにはボランティアが来ないんですよね。その中で、東京オリンピックが決まって、喜んでいる人達を見て、やっぱり忘れられていくだけなのか、って不安になる、って、この話題を先生がされると、皆さん一斉におっしゃっていました。そんな中で、うちの大学はずっと定期的にボランティアを送っていて、次も10月に、私達の次のグループが来るから、って伝えると、皆さん本当に嬉しそうにされるし、ありがたい、っておっしゃるんです。それを見ると、点に徹しろ、ってこういうことか、今、確かに点になることが出来てる、って思うことが出来ました。本当に、これは、繋いでいくことにこそ意味がある、そして、行き続けることにこそ意味がある、って心の底から感じて。先生は、何もかもが中途半端になってしまわないように、沢山のところに行くよりも、数か所に継続して行かれることを選んでらっしゃるので、本当に、点になれるんですよね。先生のこの選択をするお考えは、凄く納得できるなと感じました。

それに、一緒に手芸をすること、もてなしを素直に受けることも、大きな意味があるんだな、と分かりました。今、住むところから何から、全てを「与えられる」生活をしている中で、「自分にもこれが出来た」って思えて、それが作品として残ったり、ご飯を作ってあげた、食べさせてあげることが出来た、って思えたり、って、良いんだろうな、っていうことも、きちんと感じ取れるようになりました。
あの生活の苦しさを見ると、そうだろうな、と分かって。

他に知ったのは、子供達のことと、皆さんのお気持ちのことです。
活動二日目には、建物が残っている防災センターに行ったのですが、そこは幼稚園の側だったこともあって、子供が沢山亡くなっていて、祭壇も子供の食べ物やボール、シャボン玉などが多かったです。そして、そこは防災の役割を果たせるところだったのか、そこで良かったのか、という問題で訴訟が起こっています。それから、何人か生き残った方がいらしたんですけど、その中に消防団の方がいらしたみたいなんですね。それで、何で消防団が生き残ったんだ、という声も出ているそうで、遺族の方々が話を聞きたいと望まれいても、出てくることが出来ず、隠れるようにしている方が多いそうです。被災地はどこもそうなんですが、男性は特に、アルコール中毒になる人が多い、ということでした。
こういう話を感情論だ、と切り捨てるのは簡単ですが、あそこはそれが出来ない場所だな、と感じます。色々な思いが渦巻いてしまっても仕方ない、感情論になってしまっても仕方ない、と感じます。瓦礫を盛土に使うかどうか、という件もそうですし、建物取り壊しの件でもそうですが、身内が最期に居た場所を残してほしい、という方もいれば、見るのも辛いから取り壊してくれ、という方もいるんですね。
そして、毎月11日になると、海に向けてアンパンマンのマーチドラえもんの歌を流し続ける女性もいる。きっと、見つからないんですよね、お子さんが。だから、海に向けて流すしかない。これももう、本当に辛くなりました。もう、そういう話ばかりで、そんなことを言って、そんなことをしてどうなる、というような、そんなものじゃないんだ、と思います。
せずにはいられない、言わずにはいられない思いばかりで。
そんな中で、どうすればいいんだろう、と思います。

そして、見かけた子供達は、皆、肥満気味で無表情、と言っても良いような表情でした。恐らく、記憶があまりないだろう5歳より下くらいの子は懐きにきていましたが、それ以上の小学生の子達になると、こちらが少し声をかけても、反応しないことを選んでいる、という感じの無反応で、無表情なんですね。それも当然かな、とも思うんですが、絵を描くとなったら死体の絵を描く、急に叫びだす、暴れ出す、泣き出す、集中力が無くて机の前に5分も座っていられない、と色々と話を聞きました。
やっぱり、小学3、4年生にもなると、親に気を遣うようになるから、家では大丈夫だというように振る舞って、その分が違うところで出る、ということで、自分自身も、その歳だと、確かに、親や大人に気を遣っていたな、と思うと、納得できるように思います。
虐待も自死もDVも増えてきている、それくらいストレスが溜まっているし、先も見えない、というのを、ほんの少しでしかありませんが、肌で感じました。あそこでは本当に、どうしようもないことが多すぎて、先も何もなくて。

しかも、これから、仮設は統合されていくんですよね。出ていく人が増えれば、二つの仮設が統合される。それが繰り返されます。折角出来た人間関係も切れて、また一から始めないといけなくなる。仮設から出るのは家を建てたり、復興住宅に入ったり出来る人、身内が残っている人がほとんどですから、それが出来ない人達が、ずっと仮設に残らないといけない。もう本当に、胸が詰まります。そして、先生に言われて気が付いたんですけど、きっと、おばあちゃん達、誰よりも復興を待ち望んでいて、帰りたい、と望んでいるおばあちゃん達が、復興には間に合わないんです。あんなに頑張ってるのに、きっと間に合わない。だから、おばあちゃん達と一緒に過ごした皆に、復興していくのを見てほしい、って言われて、もう、こうやって書いてる今でも涙が出てきます。そんな、遺志を継ぐみたいな、そういうことに、実際になるんだろうな、って分かって。

またおいで、こんな何も無い所だけど、またおいで、って、どこに行っても言われました。あと3年はここにいないといけないから、来ることがあったら寄ってね、って言う方もいました。もう、たまらないです、厳しい冬を過ごして、また生きていかないといけないのに、おそらく復興には間に合わない。そんなこと言えないですよね、絶対に言えません。その中で、それが分かっていながら、おばあちゃん達を支えよう、関わっていこう、とされる先生は凄い、と思います。仮設から出るのを見るか、見送るか、どちらか分からない中で、それでも、というのは。それが宗教なんでしょうか。

活動最終日の朝は、今日が限界だな、と正直、感じました。あんまりにも悲しくて。でも、行けて良かった、と思います。
岩手は本当に、綺麗な所なんですね。ちょうどこの季節だったから、稲の金色がずっと続いて、山があって、家がポツポツとあって、川もあって、日が落ちる時がまた綺麗で、まさに日本の原風景、という色で、田舎派ではない私でも、何て無理のない、美しいところだろう、と感じました。灯りが少ないから、月も本当に綺麗で、明るく見えました。丁度、19日が中秋の名月だったこともあって、澄んだ空気の中では、月はこんな風に見えるのか、と鮮やかな発見がありました。
そういう所、津波の被害を受けていない部分の岩手の美しさを知ることが出来たこと、東北の方々へのイメージが変わったことだけでも、行って良かったです。素直にまた来ようと思えましたし、またこの風景を見に来たいと思えました。そして、恐らく、また行くだろうという予感があります。今回もそうでしたが、私は何だかんだ、行くんじゃないか、という予感が当たることが多いので、そうなのかな、と思います。非現実的ですけど。

それに、見ないと分からない、接しないと分からない、って強烈に感じたこと、何もかもがどうしようもない、という中で苦しみながら、頑張って生きている人達が沢山いらっしゃることを知れたこと、全てが、辛くはありましたが、良かったです。仮設世帯が今、まだ29万戸、っていう数字だけじゃ、何も分からない。あの人やあの人みたいな人がそれだけいる、って思うと、全然違って聞こえる。そういうことが本当に沢山ありました。それに、テレビや新聞では、最近は特にそうですが、「誰々は立ち直るためにこんな事業を始めて頑張っています」みたいな報道ばかりなんですよね。それしか作れない、というのも分かる気はするんですけど。恐らく、普通のことをしているのは深夜のドキュメンタリーくらいなんじゃないかと思います。だからこそ、行けて良かった、こういうことを知ることが出来て良かった、悲しい、と強烈に感じることが出来て、泣いて考える時間を持つことが出来ただけでも良かった、と思います。

先生は、人は忘れてしまうものだから、帰ってから、薄れていく記憶に罪悪感を感じたり、自分を責めたりしなくて良い、っておっしゃってくださって、そういう気遣いをしてくださることが流石だな、と感じたのですが、今はやっぱり、それが怖いです。今の気持ちと感覚、記憶を、このままカプセルにでも入れて、閉じ込めておきたい。それが出来ないのが怖い。

でも、これだけは忘れないだろうな、ということも沢山あって、そのうちの一つが、先生がおっしゃった聖書の箇所でした。「あなたは私の目に、価高く貴い」だったかな、これが本当に、身に沁みました。仮設で出会った皆さん、お一人お一人が貴い、大きな存在で、そんな方々が沢山持って行かれて亡くなって、沢山、苦しんでらっしゃる。数字だけでは分からなくなるけど、そのお一人お一人が、と思うことが出来るようになったというか。
それから、「今、生きていることは当たり前じゃない」って腐るほどに聞いてきましたが、それを実感しました。あそこに立って。
ありがたい、とまでは、正直、まだそこまで思えないのですが、当たり前じゃない、ということは、きちんと分かった気がします。

優しい、というのは人が憂えることだから、そうやって悲しい思いをして、皆は優しくなっていくんだよ、と先生に言われましたが、それも、何となく、そういうことなのかもしれない、と今、思うことが出来る気がします。そういう意味での優しい人になりたいです。憂えることが出来るような
。そして、そこから何かすることが出来るような。

オリンピックが東京に決まったとき、私は正直、7年後は早いだろう、あと1つ2つ先だったら、って思いました。それは、行った今、より強くなっています。勿論、それ自体がどうこう、って言うつもりはないんです。楽しみだ、という方々の気持ち自体を否定するつもりもありません。あの年、夏祭りを取りやめる、とかって話を聞くと、それは違うんじゃないか、皆で沈み込んでも仕方ないんじゃないか、って思ったほうでしたし。でも、オリンピックは違う、と感じる自分もいます。そういう盛り上がりに入れない、不安を感じる人が多すぎる、っていうのもまあ、感覚としてはあるんですが、東京一人勝ちにしかならない、国のお金を使うんでしょ、っていう気持ちが、どうしてもあります。
あちらに行って、やっぱりお金が足りないんじゃないか、って感じる機会が多すぎたので。でも、もう決まってしまったことは仕方ないので、少しでも、あちらにも何かが回っていってくれたら、そういう7年になったら、と思います。絶対に忘れられてしまわないように。こういう時に忘れられるんだったら、何の為に税金を払っていて、何の為に国というものが存在するんだ、と思います。誰もが、明日どうなるか分からないのに。

そして、ここで書いてるので、これは書いておこうと思うんですけど、音楽には力があるな、ということも感じました。故郷を歌うこと、茶摘みの歌を歌って遊ぶこと、どちらにも、本当に大きな力がありました。正直、自分で何かを聞こうとは全く思いませんでしたが、声を出すこと、初めて会った者同士で歌を歌いながら、ということには、確かに大きな力がありました。そういう役割は果たしてくれるものでした、音楽は。特に、世代が違う者同士では。

まだまだ何も書けていないように思いますし、きっと沢山のことを書き漏らしているので、もしかしたら、また何か書くかもしれません。
実は、先週の金曜日にはもう大学の授業が始まっていたので、明日からは授業と部活の生活が始まります。部活のほうも、全日の選考会に出ることが決まったので、これから死ぬ気で仕上げないといけなくなりました。
今日もバイトに行ってきたのですが、こうやって強引に生活が始まることを、少しありがたく思います。
今もそうなんですが、どうしても思い出してしまうので。

この経験がこれから自分の中でどうなるのかは、今は全く予想がつかないのですが、とにかく、行って良かった、本当に大きな意味があった、と感じています。正直、今はあまりにも疲れたみたいで、逆に感情や考えが止まってしまうんですけど。涙が出るだけで。どう付き合っていくのか分かりませんし、消化しきれないままのことになると思いますが、本当に、知ることが出来て良かった、というだけです。今は。
どうか今日も、皆さんが少しでも、穏やかな気持ちで眠りにつくことが出来ますように。
亡くなった方々も、頑張って生きてらっしゃる皆さんも。
そして、この国全体から、これからの為の、沢山の知恵が出ますように。
私自身も、出来ることを増やしていけますように。
とりあえず、「何でも頑張って」とどこでも皆さん言ってくださったので、明日からまた、勉強も部活も必死で頑張ろうと思います。

もしここまで読んでくださった方がいらしたら、本当にありがとうございました。
拙くて、ごちゃごちゃしてしまっていて、すみません。

次の記事からはまた、普通に、今まで通り書いていこうと思っていますので、よろしくお願いします。