インカ帝国 五体のミイラ

昨日は、午前中でゼミが終わったので、同じ業務をこなした友達とお互いを労わりあいながら(笑)ご飯を食べて、午後は、一人でインカ帝国展を見に、博物館に行ってきました。

こちらでは6月末から始まっていて、見たいなあ、と思っていたので、ちょっと疲れているのを意識の外に追いやって行ったのですが、部活もゼミも終わって、ある意味、切羽詰っていない今行けて良かった、と思う内容でした。

インカ帝国、そしてマチュピチュという遺跡自体に、昔から何となく惹かれていて、あそこの歴史や文化については、さらっと知っていたのですが、実際に儀式に使われたものを見たり、建築物建造の方法なんかを映像で解説されているのを見ることが出来て、改めて、こういう文明を持つ帝国があった、ということに興味を覚えました。ロマンだよなあ。

インカは文字を持たなかったので、紐の結び目に意味を持たせてやりとりをしていたようなのですが、紐、という軽くて場所を取らないものを選んでいる辺りが面白いし、なるほどな、と感じました。

それから、インカには、器にしろ何にしろ、
「2つで1つのものが、一番美しく安定している」
「2つのものが1つになることで力を得る」
という考え方が徹底していたらしく、そうか、やっぱり2つで1つのものに意味を見出す、というのは世界各地にある感覚なんだな、ってキンキさんに思いを馳せ、ちょっとテンションが上がりました(笑)

確か、光一さんもマチュピチュに興味を持ってらっしゃいましたよねー。キンキさんお二人で、マチュピチュに行ってみてほしいなー。光一さんも剛さんも、行くまではあまり気が乗らないかもしれないけど(笑)、行ってしまえば、素直に感動して楽しまれそうだけどなー。そして、キンキさんが行かれた後で、「キンキさん、ここ見て、あんな反応してらしたよなあ」って思いながら、自分もあそこに行ってみたいです(笑)

それから、今回は3D映像+玉木宏さんのナレーション、という映像企画もあって、面白かったですし、目新しく、かつ親しみやすくて良いなあ、と感じました。玉木さんも、相変わらず良いお声をしてらっしゃいました。

そして、今回、一番印象的だったのは、五体のミイラでした。
インカでは、ミイラの作り方がエジプトなんかとは違って、皆、体操座りをしていて、両手で顔を覆っている形なんですね。そして、ヒモでグルグル縛って、布で巻く、という形になっています。うーん、この説明で伝わるでしょうか?インカ展のホームページに行けば見れるんですけど・・・。今回は、五体のミイラが公開されていたんですが、一体は布で覆われた状態、他の四体は盗賊に布をはぎ取られてしまっていて、そのままの状態で展示されていました。

このミイラ達を見たとき、なんですかね、久しぶりに、あんなに、芯から哀しくなりました。悼む、というよりは、ただただ、哀しい。死というものの圧倒的な哀しみが迫ってくるようでした。五体が同じスペースに展示されていたんですが、その五体が膝を抱え、小さくなり(本当に驚くくらい小さかったです)、両手で顔を覆っている空間を眺めていると、もう、死というものの、静かで、どうしようもない哀しみに改めて触れた気持ちになりました。

エジプトのミイラよりもインカのミイラのほうが、ポーズのせいか、ありありと人体の様子が把握できて、より生きている人間に近いと感じるからか、「この人達は、以前は生きていたけど、もう生きていない」という、当たり前のことが、本当に迫ってきました。

死というものは、本当に、圧倒的に哀しい。かなしいことなんだな、と感じました。胸が詰まるような、時が止まってしまうような、そんな不思議な感覚がありました。

そして、それと同時に、生と死は紙一重で、ギリギリのところにあるのであって、生と死、生者とミイラ、もしくは骨、といったものが、空間を共有して、共に生きていく、ということは本来、何の違和感もないようなことなんだな、という感覚に、産まれて初めてなりました。インカではミイラ信仰が篤かったようなのですが、それも分かる、と思いました。
あまりに、生きている状態と、何かが近い。もちろん、ミイラですから、全然違うはずなんですが、やっぱりポーズのせいなんでしょうか、あまりにも近い、と感じました。

特に、一体、13歳〜15歳で亡くなったと推定される少女のミイラは、保存状態が良く、眼球が残っていたのですが、彼女と目を合わせるともう本当に、まるで生きているようで、でもやっぱり、何かの一線の向こうに居て、哀しくて仕方なくなりました。
あの、幸せなどというものとは縁が遠かったんじゃないか、と思わされるような目を見ていると、唐突に、抱きしめてあげたくなってしまって、自分でも凄く驚きました。生きてる人間にだって、そうそう感じる機会がない衝動なんですが、何だか納得もしました。それくらい、哀しかった。怖くなるかな、と思いながら見に行ったんですが、驚くくらい、怖いというよりは、哀しくなりました。

私は、物凄く言葉に執着し、言葉を大切にするほうですが、本当に哀しいとき、相手に哀しさを感じたときは、触れて体温を伝えたい、と思うタイプなんですよね、そういえば。あまりに哀しかったり、私がするべきじゃないな、という相手だったり、今は体温が嫌だろうな、辛いだろうな、というときにはしませんが(そして、そういうことのほうが多いですが)、冷たいような哀しさを抱えているように感じる相手には、自分の体温を伝えたい、暖めてあげたい、と願うタイプなような気がします。言葉も勿論、伝えるけど、体温も一緒に伝えたくなる。
自分自身は、割と体温が、特に身内の体温が苦手で、どうしても耐えられないタイプなのに、身勝手だなー、不思議だなー、と思います。相手によっては、大丈夫なんですけど。

うん、五体と、というか、感覚的には、五人の方の、もうこの世にはない命というものを感じるのは、物凄く力が要りました。遠く日本の地まで来て、こうやって多くの人間にまじまじと見られる、という運命込みで、全てはどうなるか分からない、どうにもならないことも多い。失われた命は、どうやったって返ってこない。でも、確かにそれはあった。そして、全ては、特に哀しみという感覚は、突き詰めれば死というものに集約されていくのかな、と感じました。原始的な哀しみというものに触れたような気持ちになって。

行って良かったです。こういう、知識だけでは到底味わうことが出来ないことがあるから、博物館なり、美術館なり、ライブなり、舞台なりに行く意味があるんだろうなあ、と改めて感じる日になりました。