哀しいから、愛しい

今日は凄く良い天気で、最近、ちょっと落ち込み気味だった気持ちが上がりました。こういう日は、東京事変さんの『閃光少女』を聞きたくなります。この曲、好きなんですけど、気持ちが沈んでないときしか聞けないんですよねー。なので、今日は良い日でした。
それから、Liberaさんの『Far away』という曲を聞いて。青空が綺麗な日に聞きたくなる、ひたすら美しい曲です。

で、その後は剛さんの曲を聞いたんですけど、やっぱり剛さんが作られる音楽が好きだなあ、ってしみじみと思いました。『くにのうた』は本当に、凄まじくテンションが上がります。なんかこう、とにかく躍動しながら内で走り回ってるように感じる力と勢いがあって、本能を揺さぶられる感じがあって、どこか突き抜けちゃってて、怖いものなさそうで良い。そして、『にひ』で、やっぱり剛さんは、少し高めで色っぽい声してらっしゃるよなあ、って聞き入ることで気持ちを落ち着けてもらって(笑)、『きみがいま』が来る、っていうこの三曲の流れが大好きです。

『きみがいま』、今日は「風に咲く悲しみよ」からの歌詞がグッと来ました。ここで一瞬、最後の日まで傍にいて、っていう、少し儚げな想いが曲に乗せられることで、余計、この曲は綺麗になった気がします。強さや明るさだけじゃないとこが良い。あと、「昨日を越えたこの音楽は いつの日かの今日を信じてくれるよ」が、「あ、それなら信じられるな」ってストン、って入ってきました。この音楽は、ちゃんと昨日を越えてきてくれたんだから、きっといつの日かの今日のことも信じてくれる。信じる主体は音楽で、「音楽っていうものは何かを信じてくれるものだ」ってことを信じていいんだ、っていう感覚が、剛さんらしいな、と思いました。剛さんは本当に、音楽に助けられてきたんだろうなあ。

ここからは、深夜に書いたなー、って感じの、ぐだぐだしてる上に実のない(いつも無いんですけど(笑))、ただの自分語りみたいな話になっちゃったので、下げます!


というわけで、今日書きたかった本題に入ります。高校一年生のときだったと思うんですけど、「多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだかなしき」っていう東歌を知って、初めて、いとしい、ということを「かなし」という言葉で表現していたことを知りました。手持ちの古語辞典を久しぶりに引っ張り出してみたんですけど、愛しは[かなし]と読む形容詞で、①相手を愛し、守りたい思いをいだくさま。いとおしい。かわいい。②身にしみておもしろい。興味を感じて強く心をひかれる。って書いてありあす。語感は、「その人のことが気になって、胸がつまる感じ。自然に対しては、深く心を打たれる感じ」だそうです。
悲し、あるいは哀しは、同じ[かなし]と読む形容詞で、意味は今と同じ、「かわいそうだ。いたましい。」です。というわけで、今日の記事の読みは、「かなしいから、かなしい」です。

私は多分、この哀しいから愛しい、っていう想いが強いタイプなんだろうなあ、って思います。可哀そうで、いたましいからこそ、愛おしく感じる。もしかしたら、逆なのかもしれないですけど。愛おしいと思うからこそ、辛そうだったらかわいそうで、いたましいと感じるのかもしれない。
大きなことを言ってしまうと、命というものもそうなのかな、と思います。逝ってしまう、哀しいものだからこそ、愛しいと思うのかもしれません。過ぎた時間も、もう戻ってはこない、哀しいものだったから愛おしいのかもしれない、って自分のことを振り返ると思います。

なんだろうなあ、幸せそうな人には、あまり「その人のことが気になって、胸がつまる感じ」は無いんですよね。穏やかに、幸せであってほしい、と思います。決して、想わないわけではないんですけど、どこか哀しそうな人、もしくは、哀しさなんて感じさせないことが、逆に哀しい人のほうに、より強く惹きつけられます。

そして、私は人のことを哀しく思い過ぎなんじゃないか、って最近は思います。哀しむ、ってことは、失礼でもある。勝手に哀しい人だと決めつけて哀しんでることも多いと思うので、本来は哀しいと感じないようにしないといけないんじゃないかなー、って思ってます。自分ではどうしようもないんですけど。

なんだろうなあ、この哀しみたい症候群みたいな感じは。可哀そうと思いたい、っていうのとは、また微妙に違うんですよね。憐れんでるわけでも、同情してるわけでもなければ、どうにか幸せになってほしい、と強く望んでるわけでもない。それよりは、淡々と、その人の哀しさを、純粋に、ただただ哀しみたい。しかも、この哀しみは、凄く乾いてるんですよね。どちらかというと、突き放すような感覚に似ています。ああ、哀しいな、と思う。心を揺さぶられる、とかそういうのではなく、ああ、こういう哀しい人がいるな、って目を閉じて、ただ「かなしいな」って思いたいだけ。手を伸ばしたい訳でもなければ、何かしたいわけでもない。ただ、その哀しさを黙って受け入れたくなるような感覚があります。
そして、そういう哀しさを持つ人を見ると、私は何故か落ち着くんですよね。何故か、そういう時は、自分だけが一人じゃないんだよな、って思う。そういう時だけ。別に、普段、「私は一人なんだ・・・」とか思うことがあるわけじゃないんですけどねー。何なんだろう。

「哀しい、だけど、だからこそ愛しい」っていう感覚が、私という人間の核みたいなものになってるのかもしれない、って思います。哀しいものしか、心から愛しいと思わないタイプなのかもしれない。

ただ、最近になって、別に哀しくはないのに、それでも愛おしい、っていう場合もあるんだ、って分かったので、もしかしたら、哀しい、と思うのと同時に湧き上がってくるこの感情は、やっぱり愛しいというのとは別の感情なのかもしれません。ただの哀しみなのかもしれないし、哀しみというものがもともと、こういう愛しさに近い感覚を含むものなのかもしれない。でもやっぱり、哀しさとは無縁の愛しさよりも、哀しさから湧き上がる愛しさのほうが、ずっと強いんですよね。強いというか、身体の隅々まで浸ってしまうような感覚になります。

哀しい、っていう感覚は、私にとっては、憐れむ、っていうには、冷たすぎるし乾きすぎた感覚です。憐れむことには、手を差し伸べよう、とか、慈しもう、という感覚が入ってるような気がするんですけど、私の哀しさは、慈しむような思いは入ってない。多分。哀しい、っていうのは、悲しくて涙が止まらない、っていう心がグチャグチャになるような感情とも違う。何なんだろうなあ。

そして、哀しみと愛情ってどういう関係があるんだろうなあ。
私が、こういう意味での哀しさと愛しさをぼんやりと考えずにはいられなくなるのが、剛さんなんですよね。光一さんにも、たまに感じます。キンキさんお二人揃われたときにも、ふとこういう哀しさを強烈に感じる瞬間がある。でも、鬼塚さんとかCoccoさんとかには感じない。好きだけど、こういう意味での哀しさは感じない。今度、私が何を哀しいと感じるのかを考えてみたいです。何だろう、ご本人が何かを自覚してらっしゃるかどうか、なのかなー。それとも、幸せになりたい、っていう望みが強いか強くないか、なのか。愛情の求め方なのか。結婚してるかどうか、子供がいるかどうか、っていうのは、意外と関係ないんですよね。よく知らない人でも、テレビでふっと見て、あ、この人哀しい、って思うときがあるし、下手したら街中ですれ違う人で、ああ、この人哀しい、って思うこともある。思い込み、っていうのが一番あり得ることな気がしますけど(笑)

でも、とりあえず、剛さんの哀しさはダントツなんですよね、私の中で。宇多田さんも、結構ああ、哀しい人だ、って思った覚えがあります。明菜さんも、最初見たとき、哀しい、って思ったんだよなあ。一人でしかいられないように見える人なんですかね。それとも、一人だってことを自覚してる人達なのかなー。誰かと居ても、どこかで、一人でしかいられない人に見えるのかもしれない。光一さんも、たまに凄く一人だし、そんな一人同士のお二人が、一人でしかいられなくても、それでも二人でいるからこそ哀しいのかな。・・・ってここまでくるともう、ただの想像というか、物語っぽくなりすぎるんですけど。私はとことん、「一人」だってことや、一人の人が好きなんだろうなあ。そういう人達の作品が好きなんだと思います。一人の人だからこその他者の求め方や、繋がり方の模索のしかたや冷め方や揺らぎ方が好きなんだと思う。結論も何も無いままですが、深夜の独り言、ってことで、とりあえず今日ぼんやり思ったこととして、書き残しておきます。