半年に一度

半年に一度くらいの割合で、私は物凄い落ちかたをするんだったなあ、って思い出してます、今。

年末からじわじわ落ちてたのが、耐えきれずに今日崩れて大変でした。
本当に、自分から逃げることは出来ない。
そして、自分のことは自分で助けてあげるしかない。

ということで、ここからは物凄く!暗い上に、人でなしなことばかり書いてしまうと思います。すみません!どうしても、文章にしないと自分が危ないな、って感じなので、書いておきます。やっと、文章を書けるくらいには落ち着いたので!


今日は、三時間くらい、「もういや、もういや」って泣いてました。ものすっごく怖い感じだったと思います(笑)

たまに、こういう波が来るんですけど、何かの試験の前が多いです。時間があるのと、身体を動かす時間が減る、っていうことで不安定になるみたいで。

割といつも、自分では「ちょっときついし不安定だけど、まだまだ大丈夫だろう」って思ってる段階で来るので、全然心の準備が出来てなくて丸腰で迎えてしまうことが多くて、心底疲れます。

もう、本当にドン引きされるだろうから人には言えないんですけど、心の底から全てが憎い、って思うんですよね。憎悪というか、怒りというか、自分自身を含めた全て、自分の周りにある全てが憎いんです。人も物も。今まで自分が生きてきた時間全て、それから、これから自分が生きていかないといけない時間全てが憎い。物凄く傲慢な考えなんですけど、私を苦しめてきた、苦しめていく全てが憎い、って思うんです。

普段、そんなに感情を動かさないほうなんじゃないかと思うんですけど、半年に一回くらい、全身全霊で全てを憎む数時間があります。それが終わると、どん底どん底でも冷静にどん底を這いつくばって進む感じになるんですけど。今回はいつまで続くんだろうなあ。気が重い。試験勉強したいけど、こうなるととことん落ちるまでは少しずつしか出来ないんですよね。ピーク越えたから何とか出来るとは思うんですけど。あー、これも不安だなあ。

何なんだろうなー、この発散にもならない嫌な発作みたいなものは。癇癪、とはまた違う感じなんですよね。多分だけど。憎悪の対象が漠然としすぎてるのが、良いことのような悪いことのような・・・。

私が恐ろしく情念の強い女だからこうなるんだろう、っていうのはあるんですけど、もう、全てが嫌すぎて、本気で死のう、って一瞬思います。本当に崖の淵から下を覗き込んでる感覚になる。最初のほう、って言ってもまだ中学生だったんですけど、その頃は上手くこの感覚をコントロール出来なくて、パニックになった母に心中に持ち込まれかけたりしたものですけど、今は、何とか、短時間でそこから意識を離すことが出来るようになりました。慣れって凄い。

でも、本当に思うんですけど、もう死ぬしかない、って本気で、発作的に思ってる人に、「他の人がどうこう」とか、「苦しんでるのは皆同じ」とかっていう意見って、何になるんでしょうね。その人にとっては、その瞬間、自分が耐え続けた苦しさだけが全てで、他人の事情なんて入ってくる余地があるわけない、って思います。逆に言えば、まだ他人を想えるうちは、死にたいなんて思わなくていいんじゃないか、って思う。

「皆色々あって、それでも頑張ってる。」「自分が死んだら迷惑がかかるし、他人を傷つける」って、それくらい、皆分かってるし、身内を亡くして辛い思いをした、っていう人だって自殺者の中には沢山いるはずなんですよね。それでも、皆死んでいく、っていうのは、そういう、普段なら想えることに気を回す余裕が無くなってしまうくらい、追い詰められてるんだと思います。普段なら、ちゃんと考えられるし、頑張れる。他人を心から労わることだって出来る。だけど、その瞬間、捕まってしまう瞬間、っていうのは、強烈に、もう楽にしてくれ、もういいでしょう、お願い、っていう気持ちになってしまうんだろうし、それを責めることは出来ないな、って思います。逃げられない中で、もうそこしか見えなくなってしまう気持ちが分からないわけじゃない、というか。

それでも、私は死にたくないな、って思うし、これまでも何度も引き返してこれてるので、多分、大丈夫なタイプなんだろうと思います。これもある意味生命力なんでしょうねー。もう何度も、気が付いたら淵にいて、それでもそこでぼんやり立って、自分の足で帰ってきてるので、なんとなく帰るコツは掴めてるように思います。それでも、毎回怖いんですけど。私は、ギリギリのところで、自殺するより、這いずり回って苦しむことのほうにしがみつけるタイプみたいで、自分のそういう所は嫌いじゃないです。

そして、きついのが、この波がくると必ず、頑張らないと、って思うんですよね。皆、私のこと本当は好きじゃないんだから、少しでも好かれるように頑張って「あげないと」って思う。

私は、子供の頃から、自分が天真爛漫で皆に愛されるようなタイプじゃない、って分かってたんですよね。でも、特に大人が子供に求めるのって、そういう愛くるしさだな、っていうことも感覚的に分かってて、何とかそれに近づかないと、って思ってました。小さすぎるときは上手くやれなかったけど。

しかも、その理由が、自分が愛されたいから、とかっていうより、上手くやりたいから、そして、子供(あるいは孫、生徒)を好きになれない、って悩んだりしたら大人の人がかわいそうだから、っていうものだったように思うんですよね。

大人に対して、折角買ってくれたんだから喜んであげないと「かわいそう」とかって思う子供だった、ってことは確か以前も書いたと思うんですけど、私みたいなのに当たったせいで、子供、あるいは孫、生徒を好きになれない、っていうことに悩むのもかわいそう、って思ってたんですよね、私は。今でも、なんでそんな傲慢すぎる考えに行きついたんだか不思議なんですけど。

それで、もう、誰に対しても、「この人、どんなタイプの子供が好きなんだろう」って考えて、出来るだけ、相手が受け入れやすいように、受け入れやすいように、って振る舞ってました。自分が素の状態だったら、誰も私のこと好きになれないだろうな、それで悩むのかわいそうだな、って思ってたので。

なので、好きだ、って口に出してもらっても、「うん、私があなた用に作った私のことがね」って思って、いつも疲れてました。それに、この人達が私のことを好きであり続けられるように、ボロを出さないように「してあげないと」っていうプレッシャーもありました。演じてるわけだから、設定も色々細かくあって、ヘマしないようにしないといけないし、この人達を悩ませたい訳じゃないし、って思ってたんです。

ただ、不思議と、私自身が、今のまま愛され続けたいから、とはこれっぽっちも思いませんでした。私自身を愛してもらってるわけではないので、その好意があろうがなかろうが、私には何の違いも無いんですよね。私が作った私を愛されるのも、愛されないのも、何の違いも無い。

で、ここからが本当に人でなしな話なんですけど、私、もう四年前に母方の祖父が病気で亡くなってるんですけど、そのときに本当に安心したんですよね。不謹慎すぎるんですけど、ありがたいと本気で思いました。これで、祖父はもう私を嫌いになる可能性が無くなった、もう少しも偽らなくてよくなった、って思って、そこで初めて、祖父が私のことを愛してくれていたことを受け入れられました。祖父の想いを信じられるようになったというか。

だってもう、祖父は亡くなったんだから、祖父が最期まで私を想ってくれたことは、何があっても変わらないんです。亡くなったことで、初めて、安心して、祖父のことを想うことが出来ました。もう愛されることを負担に思わなくてよくなった。

そして、その時に、祖父は本当に私を想ってくれて、愛してくれてた唯一の人だったんじゃないかな、って初めて、思うことができました。祖父は、私がどんな性格だろうが、何をしようが、何にも気にしない人でした。ただ、遠くから会いに来てくれることが嬉しい、ってそれだけで、話なんかしなくても、隣に座ってるだけで喜んでくれる人でした。私がものを食べてるかどうかだけ気にして、「ごめんね、もう帰るね」って言うと、本当に哀しそうに泣いてくれる人でした。今でも、ずっと私を見送って、座っている椅子から手を振ってくれてる姿が浮かんで、ちょっと泣きそうです、今。

遠くに住んでいるからこそ、私は、祖父の最期に立ち会うことは出来なかったし、年に一度しか会いにいけませんでした。たった一人の孫だったのに。それを、本当に後悔してるから、祖母には細目に葉書を出すようにしてるんですけど、でも、この距離で良かった、とも思います。

もし近くに住んでいたら、顔を見せるだけで喜んでくれる、っていうことも無かったんだろうと思うんですよね。私は、絶対、祖父の前で、より良い孫になろうと試行錯誤したでしょうし、それ自体が間違ってることではないんだろうと思ってはいます。誰に強要されたことも無いんですけど、そういう気の使い方はしないといけない、って今も思ってます。

でも、やっぱり、私が何であろうが気にしない、っていう関わり方をしてくれたのは祖父だけで、そういう祖父だからこそ、私は祖父の傍では、過剰に気を使わず、ただ一緒に静かな時間を過ごせたんだろうと思います。両親も親戚も、私の存在だけで、って言ってくれたことがあるんですけど、やっぱり信じられませんでした。そう思ってても、多分、いざ私が素を出したら、無理なんだろうな、って思うんですよね。

でも、祖父の想いだけは、今は、信じてる気がします。それは、私が祖父にとって、たった一人の孫娘であったこと、もう亡くなっていて、私への想いがもはや変わりようがないこと、そして、祖父が最期まで私のことをよく知らないでいてくれたこと、無条件に私が来ることだけを喜んでくれたこと、っていう四つの要素が満たされてるからで、逆に、ここまで揃わないと、私は自分に対する愛情を、安心して受け入れることが出来ないんだと思います。本当に歪んでるんですけど。

母には、「こちらの気持ちが伝わらないのは、あんた自身が私達のことが好きじゃないからよ」って言われたことがあって、それにはちょっとなるほど、って思いました。こちらが、あちらを好きか、って考えたこと無かったなー、と思って。そして、確かに、そう言われてみれば、私にとっては、「好きになってくれる、愛情を注いでくれる=その人のために、その人が私のことを愛し続けられるように、演技をしてあげないといけない」っていう思いしかないんですよね。愛せないのもつらいだろう、って思うのは、(小さい頃はまた違ったんでしょうけど、今は)自分自身が、本心では好きになることが出来ないからなのかもしれません。

血が繋がってるからこそ、亡くなった祖父は私を愛してくれましたけど、私自身は、血が繋がっていたら無条件に愛情を抱けるタイプではないみたいなんですよね。分からないですけど。本当にそんな人間がいるんですかね?

ただ、私は母子ものとか、兄弟ものの物語やドラマに何かを感じたことがないので、本当にそういうタイプなのかもしれません。うーん、どうなんだろう。ちょっと怖い。

で、こうやってつらつらと書いてきて、唐突にキンキさんへの私の感情に、自分で納得がいったので、書いておきます!本当に唐突ですみません(笑)

こうやって書いてみると、そりゃあ私は剛さんに感情移入しちゃうよなあ、って思いました。いや、規模とか背負ってるものとか辛さはもう、剛さんとは全然レベルが違うんですけど、考え方の方向性としては、明らかに剛さんよりなんですね、多分。

なんかこう、剛さんが愛情っていうものを疑わずにはいられない、ってそりゃそうだろうな、と思うし、私が剛さんに惹かれるのは、剛さんが愛情を何とか信じようとして、それでも愛情っていうものに触ることが出来ないまま、愛情の周りを必死にグルグル回ってるように見えるからなんだろうな、とも思います。あるのは分かってても、触れることができない。

剛さんは愛情、ってものが分からないんじゃないかなー。いや、私も分かってない気がするから、何とも言えないけど。(暴言すぎてすみません!バイオリズムの関係か何かでちょっとおかしくなってる奴の、必死な、単なる仲間探しです!)

ファンとアイドル、っていう関係性にしろ、音楽仲間にしろ、光一さんにしろ、身内にしろ、剛さんには自分という人間の全部を知って愛してほしい、っていう願望があって、そういう愛情じゃないと信じられないからこそ、それを切望するんだろうけど、それはどうしたって無理なんですよね。

剛さんが進む方向性的にも、やってること的にも、あまりにも幅広過ぎる。せめてジャニーズのアイドルらしいアイドル、っていう一面と剛さん個人という一面と、くらいだったら何とかなったのかもしれないけど、そこにさらにソロでやってらっしゃるところ、目指してらっしゃるところも、ってなると、その全てを、剛さんが無意識に望むレベルで知って理解して愛する、ってもうやっぱり限りなく無理に近い。だからこそ、剛さんは愛されてる、って確信を持てたことがないんじゃないのかな。もしくは、愛されてる、って思ってもどこかで不安になってしまうんじゃないかなー。

もしそうなら、その感覚は分かる気がします。剛さんは自分を作ること、魅せることが上手いから余計、何も信じられなくなって、愛される、っていうのがどういうことなのか分からなくなっていくんじゃないのかなー。少なくとも以前は。

今はまたちょっと違うとこに入っちゃってる気がします。自分で作ったものを「愛」とした感じに見える。だから、ある意味、自分が作った「愛」っていうものに殉じる殉教者みたいな感じになっちゃえるのかな、とも思う。自分が作ったものだからこそ、あそこまでのめり込める、確信を持てるんじゃないかな、みたいな。

本当に勝手な妄想なんですけど!!すみません、寂しくなりすぎてる女の独り言です!(笑)

でも、私、剛さんのおっしゃる愛、って普通の感覚からしてもかなり歪で不思議な形をしてるんじゃないか、っていう違和感は以前からあったんですよね。感覚で知ってる、というより、頭を使って、分からないものを分からないなりに必死に作り上げてるように感じました。だからこそ、物凄く潔癖で、理想的な、万能の力のように感じるし、大切なとこがスコンと無いようにも感じる。「愛は求めちゃいけない」とか。剛さんのおっしゃる愛は、「なんかもう、それ愛じゃなくないか」って感じるときがあります。

そして、剛さんは、人の自分に対する愛情を試さずにはいられないイメージもあるんですよねー、私。去年の奈良公演にしても、ここまで来てくれるのか、って試されたような気がします・・・ってこれは単に、行くのに苦労したこちらの勝手な恨み言なのかもしれないんですけど(笑)

剛さんにとっての愛情ってなんなんだろうなー。剛さんって、どうしても、自分内の愛に満たされてる感じはあっても、人からの愛を上手く理解して受け入れられないように見えます。剛さんご自身は、愛されてる、愛を受け入れてる、って思ってらしても、なんか違う、なんか伝わってない、みたいな。

大体、本当に愛に満足してる人が愛を「投げる」って言葉を使うものなのか。そして、愛のやりとりをしよう、ってあんなにも望むものなのか。どうなんだろう。剛さんがもともとのエネルギー量が多すぎるだけなのかもしれないけどなあ。

っていう、剛さんの愛が分からない、っていういつもの結論になってしまった・・・!いつもすみません!疑ってるわけではないんですよ!
あそこまで愛に拘る、っていうのは何かしら無いと無理だろう、っていうのは疑いようがありませんから!そして、このことを考えるといつも、剛さんが若いうちに売れてくれて良かったよなあ、って思います。若いうちにある程度売れて、義務を果たした人じゃないと、今までみたいな「愛!」「愛!」みたいな活動は出来なかっただろうし、そうじゃなかったら、私は剛さんの愛について真剣に考えたりしなかったと思うので(笑)
絶対、「アイドルだなあ。愛って大事だよね、世界平和のためにも」くらいしか感じなかったと思う。ここまでの量と切実さと歪さがないと。

そして、光一さんなんですけど、私、光一さん大好きだし、その考え方わかるなーって思うことも結構あるんですけど、感情移入したことってあんまりないんですよね。何故なら、光一さんは天真爛漫タイプだから・・・!なんだろう、羨ましいのと同時に、理解出来ない。いや、剛さんのことも大概理解出来ないんですけど!(笑)

うーん、ああいう振る舞いが、自分には絶対出来ないし、したいかと言われればまあ、したくはないので(笑)、本当に人種が違うな、って感じます。それから、自分はこれでいい、こういうタイプだから、って思っていられる、っていうのが凄いと思う。そちら側でいられるのが羨ましいような、そうじゃないような。

見てるぶんには、自分とは違いすぎて面白いですし、この人凄いな!(笑)ってよく思います。

って、長く書きすぎた!

とりあえず、今日はもう酷いことと人間性を疑われることを書きまくったので、ついでにひっそり思ってたことを書いちゃうんですけど、私が今、キンキさんにしてほしいな、ってほぼ唯一に近いくらい望んでるのは、剛さんのお誕生日をキンキさんのファンと光一さんと皆さんとでお祝いすることです。

正直、初めて光一さんのお誕生日「だけ」をお祝いしてきてる、って知ったときはちょっぴり引きました、私。メンバーが5、6人いるならともかく、2人しかいなくて、片方だけを何年もお祝いして片方は何も無し、ってちょっといくらなんでも酷すぎないか、って。お二人の活動やら性格やらを知る前だったので、余計、キンキさんって?って思ったというか。

光一さんはこの状態に何か思うことはなかったのかなー、っていうのは、やっぱり思っちゃいます。剛さん側から「やって」って言うことは出来ないだろうしなあ。

個人的には、剛さんこそ、そういう経験が必要な人じゃないかな、って思うし、それで剛さんが何を想うのかな、どういう反応をされるのかな、っていうのも気になるし。

まあ、日程のこととかもあるんでしょうけどね!でも本当に、一度くらいやってあげてほしいな、って思います。気持ちだけじゃ何も伝わらないし、甘えずに言葉と行動で伝え続ける、っていうことが、特に剛さんにとってどんな意味を持つんだろう、って考えると、全然関係無い私が焦燥感を覚えちゃってますからね(笑)

これこそ、無理矢理やってもらっても何の意味もないんでしょうから、いつかそんな日が来たら良いな、って思います。お祝いしてみたい。

こんなに長ったらしくて嫌なことしか書いてない文章を読んでくださった方がいらしたら、すみません!今日は本当に駄目な日みたいで!

下の記事に頑張ります、って書いて、お星様をいただいたにも関わらず・・・!
しばらくは、自分に出来る範囲で、色々と頑張ります!