お誕生日、おめでとうございます!!

剛さん、お誕生日おめでとうございます!!!

いやあ、剛さんの誕生日って、なんで毎年、こんなにしみじみと「今日は良き日だ・・・。日の光も花の色も星の輝きも、今日は特別鮮やかに感じられる・・・。」みたいな気持ちになるんだろうなあ、と思います(笑)

「おめでとうー!☆」みたいなテンションというよりは、「剛さんが産まれた季節、産まれた日がまた巡ってきたのか、ありがたい・・・。今日は素晴らしい日だ、全てを慈しもう・・・。」みたいな、無駄に壮大な気持ちになるんですよね(笑)

光一さんのお誕生日は、元旦なこともあって、ひたすら「おめでとうございますー!めでたい!まさに祝日だ、祝おう!!」みたいな感じになるんですけど(笑)

それから、春という季節は剛さんに似合うなあ、と、これも毎年のように思っている気がします。
草花が芽吹いて沢山の色が溢れ出す、エネルギーに満ちた季節。

キンキさん的には、冬に産まれた光一さんを追うようにして、次の季節に剛さんが産まれたんだなあ、と考えると、なんとなく微笑ましくなります。
お二人のほんの少しの年齢差、ほんの少しの身長差、ほんの少しの声の高さの違い、そういったものって、実は結構、お二人の関係性にとっては大きいことであるような気がするんですよねー。
もしも、この「ほんの少し」が逆だったら、また色々と違ったんじゃないかなあ、って。
特に年齢差は。

ということで、仕事が始まって色々と緊張もするので(笑)、最近はいつもにまして、キンキさんや剛さんの曲を沢山聴いています。
改めて、「カバ」が凄く良いなあ、と思ったり、キンキさんの歌声を聴くと安心出来るようになってきたなあ、と思ったりしながら。
「カバ」は、疲れている時や、明るさをそこまで求めていない時、落ち着きたい時に聴くんですけど、凄く良いなあ、って改めて感じます。
発売から時を重ねるにつれて、良いなあ、って思う気持ちが強くなってきて。
なんだろうなあ、過剰さとか派手さが無いのが、もしかしたら好みが分かれるところなのかな、とも思うんですけど、それがなんだか良いんですよねー、私にとっては。

カバーアルバムだし、音にしろ歌い方にしろ、もっと派手に、華やかにすることはいくらでも出来ただろうに、剛さんはそうはしなかった。そのことに、少し驚いた気持ちもあったんですけど、最近は特に、剛さんらしいな、って納得するような気持ちになります。

売れ線がどうの、分かりやすさや華やかさがどうの、っていうのを気にせずにやろうとする感じがして。そういう感覚でいられるのって、若い頃から物凄い売れ方を経験した方だからこその特権なんじゃないかなあ、と思います。
勿論、例えその経験があったとしても、誰もがそういう感覚でいられるわけではないだろうと思うと、剛さんの、御自分の音楽に対する稀有なくらいの真っすぐさが眩しいくらいだな、と感じます。
他者に、あるいは世間に評価されたい、という感覚に縛られず、自由であるように見えるところも含めて。
個人的にはそう見える、っていうだけで、本当のところは全然分からないんですけどね!

それから、キンキさんのMアルバムのほうの「愛のかたまり」も、最近よく聴く、というか、聴きなおす、みたいな感覚でいます。
このバージョンもやっぱり、凄く良いな、好きだなあ、と思って。
原曲は、キラキラしていて、どこか刹那的で、20代前半ですかね、のお二人の雰囲気が詰まっている曲でもあると思うんですけど、アレンジが変わるだけで、ちゃんと今のお二人の年齢にも凄くしっくりくるようになっていて、それだけの力がある曲なんだな、って聴くたびに思います。
一時期のお二人にしか似合わないんじゃなくて、10年以上経った今も、キンキさんらしい魅力を引き出すことが出来る曲だったんだなあ、って。
お二人で作った曲が、歌う年齢の変化にも対応出来る曲であることって、アイドルさんの曲だからこそ余計、凄く意味があるような気がします。

幸せなのに儚い、嬉しいのに寂しい、今の暖かさを感じながら失われる時を想う、そういう事が「切ない」という想いに繋がるのかな、と思うのですが、Mアルバムのバージョンのほうにも、原曲とはまた違う、しっとりとした切なさが滲んでいて、やっぱりキンキさんは「切なさ」を表現する力が抜群に高いな、と改めて感じます。
原曲から時を重ねて、もっと繊細で、もっと儚くて、どこか物悲しくなっているのがまた良いんですよね。愛を積み重ね続けてきた二人の歌になっているようで。

美しいからこその切なさでもあるよなあ、と思うと、お二人のそもそもの声質の良さや相性の良さにも、改めて感謝したくなります。

そうそう、キンキさんのコンサートに行った時にも強く思ったのですが、剛さんは、ソロの時とキンキさんの時とで、歌い方、声の出し方が違うように感じます。
キンキさんのコンサートの時の歌い方は、本当に「正統派」という感じで、情緒を強調するというよりは、聴きやすさ、調和しやすさが重視されているように聴こえて。
無意識にそうなるのかもしれないし、もしかしたら色々と意識されているのかもしれませんが、どちらの歌声もとっても魅力的なので、剛さんが芸達者でいてくださるおかげで、本当に色々と楽しませていただいているなあ、ってしみじみと思います。


ということで、ここからは自分の話なのですが、4月1日から勤務が始まって、剛さんの歌声やキンキさんの作品に癒されながら、なんとかやっています。
昨日まではやっぱり、まだまだ余裕が無かったので、こうやって文章を書ける日曜日が10日で良かったです(笑)
小さい事務所だし、入所日にまず、故意または重大な過失で損害が生じた場合は賠償を、みたいな誓約書を書くような類の職だしで、色々と戸惑うことも多く、探り探りの毎日です。
皆さん、かなり忙しくされているし、同期もいないしで。

でも、日を重ねるごとに、最初の印象よりは、まだなんとかなる気がする、っていう気持ちが強くなってきてはいるので、とりあえず、しばらくはひっそりと頑張りたいなと思います。
ゆっくりお話を、という感じでもまだ無いので、とりあえず、単純接触効果って本当だったら良いなー、と思いながら(笑)、出来ることをなるべくきちんとやっていきたいです。

とりあえず一週間を終えて、こうして剛さんの御誕生日に、剛さんおめでとうございます、応援してます、と思いながら文章を書けて、だいぶリラックス出来て良かったです。

これからの剛さんの1年が、素敵なものになりますように!心から願っています。

そうそう、桜を見ながら「ソメイヨシノ」を聴いていて、改めて、剛さんはやっぱり祝福された人なんじゃなかろうか、やはり天からの使いなのか、みたいな気持ちになったんですよねー(笑)

最初の一文から「叫ぶ声がまた墜落した」って、やっぱり衝撃的で。
「叫ぶ声」「また」「墜落」どれも、物凄く珍しい、歌詞には使われることは滅多にない、という単語ではないですよね。
むしろ、一つ一つの単語は、歌詞として使われることが結構あるように思います。
だからこそ、組み合わせ方や、桜の表現という使い方で、見慣れた単語がこんなにも鮮やかなものになるのか、という驚きがあって。

組み合わせや使い方の上手さ。
そして何より、綺麗に散っていく、あの美しい無数の花びらの一枚一枚が叫び声であるように感じる、感性の独特さ。
その哀しさ。

あんなに愛されている人なのに、って思うことが、剛さんを見ていると、今でもあるんですよね。不意に。
それはきっと、剛さんが情の深い方だからこそなんだと思うんですけど。
でも、その哀しさが与えられていることこそが「祝福」の証でもあるんじゃないか、って思うんですよねー。
愛情が沢山ある剛さんは、そのぶん、哀しい想いをすることも沢山あるだろうけれど、その全てが、誰にでもは与えられない祝福、神様か仏様か分かりませんが、気に入られているからこそであるような気がして。
もし、剛さんの「愛」の中に哀しさが無かったら、剛さんの作品や歌声に、ああいう種類の美しさや力は籠らないんじゃないかな、って。
人からであっても才能からであっても、なんなら神仏からであっても、愛されること自体が、哀しくて苦しくて辛いことでもあるよなあ、って、剛さんを見ると、たまに感じます。

でもきっと、哀しさを与えられた人だからこそ、優しさや幸せや喜びも鮮やかに、美しく感じられるものなんじゃないかな、と想像しますし、そうであったら良いな、と思います。

剛さんが今年も、全てを抱えて剛さんらしく歩み、そして出来れば、沢山歌ってくださいますように。
幸せな時間を沢山、過ごされますように。
本当におめでとうございます!

これから、TUや夢を見れば〜等々、近年の作品を聴きつつ、御出演される番組を待ちたいなと思います!