フジ子・ヘミングさん

初めて、フジ子さんの音を聞いたのは、小学校六年生のとき、何かのテレビ番組ででした。

フジ子さんと言えば、のリスト作曲「ラ・カンパネラ」。たまたま聞けたので、フジ子さんがどういう方なのか、っていうのは全く知らなかったんですけど、その音を聞いて、音楽って、退屈なものじゃないんだ!って初めて感じたのを覚えています。

私は、フジ子さんの音を聞いて初めて、クラシックって、ピアノの音って、こんなに生き生きとしていて、凄みがあるものなんだ、っていうのを知ったんです。激しくて、生々しくて、本当に驚いた。それで、フジ子さんについての本を何冊か読み、フジ子さんが九州に来てくれる、っていうのを知って、両親に頼んでお金を出してもらって、初めてコンサートに一人で行ったのが、中学一年生のときです。

衝撃的でした。本当に、一台のピアノしか使ってないのかな。この人のパワーはどこから出てくるんだろう、って不思議になるくらい、エネルギーに満ちていました。若い男性が10人束になっても、この人のエネルギー総量に追い付けないだろうな、って感じた。フジ子さんの音は、リズムやテクニックで言うと、難癖つけられても仕方ないのかもしれないんですけど、そういうのがどうでもよくなるような凄みがあるんですよね。説得力、って言ったら良いのかな。有無を言わせない音だった。

フジ子さんの音は、私には、ただの「癒しの音」ではありません。もっとずっと強くて、厳しくて、激しい。冷たい、と言ってもいい。フジ子さんは、ただ音を鳴らすために鳴らしてるように聞こえるんですよね。もしくは、神への捧げものとしての音(フジ子さんはクリスチャンなので)。そして、自分の中にあるものを昇華させるための音。その次くらいに、「誰かのために」っていうのが来るように思います。そして、だからこそ、聞いていて癒される。聞き手のためだけの音じゃないから。

それからほぼ毎年、フジ子さんの音を聞いてますけど、最初の年はかなりの当たりだったんですよね。全てがかみ合ってたし、上へ昇る音だった。あまりに素晴らしくて、「この音を浴びた自分の身体が愛おしい、って思えるな。」って真剣に思いました。フジ子さんの中に渦巻く、プラスかマイナスかで表現するなら、明らかにマイナスである感情に、そのまま触れたような気がした。そして、その激しさに自分の全部を持って行かれました。

あれ以来、ほぼ毎年、フジ子さんの音を聞いていますが、いつもいつも、緊張します。「今のこの人の音は良い」って言えるかな、それだけのものを聞かせてもらえるかな、っていう不安と、自分はこの人の音をきちんと聞けるか、っていう不安。そして、衰えへの不安。今までは、いつも、「フジ子さんはやっぱり凄い。只者じゃない。」って感じられてるんですけど、明日はどうか分からない。今のフジ子さんの音に心を揺さぶられたいし、その音をきちんと聞きたい。

高いお金出してこんなに緊張する、って私は何をしてるんだろう、って思う時もあるくらい、緊張します。自分の感覚に嘘をつくことは出来ないから。他の、好きな芸能人の方々の作品を見聞きするときも緊張するんですけどね。娯楽のはずが、苦痛と紙一重になってるときがあって、なんとも言えない気持ちになります。自分の重たさに自分でドン引く、というか(笑)

明日は、深く考え込まず、構えすぎず、フラットな状態で、大学に入学して、とりあえず、一つの山を乗り越えたように思える自分自身で、フジ子さんの音を聞いてこようと思います!